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調査最新情報
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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.3 (2006年8月号)より
考古学フィールドとしてのジャバル・ビシュリ
常木 晃(筑波大学)
計画研究「西アジアにおける都市化過程の研究」研究代表者
本特定領域研究の計画研究のひとつである「西アジアにおける都市化過程の研究」では、西アジアの都市形成とその発展について、農耕社会や遊牧社会に見られる部族性の果たした役割に留 意しながら、考古学的、歴史学的、言語学的な研究法を用いて研究を推進しようと計画している。本特定領域研究の主対象フィールドとなっているジャバル・ビシュリで、そうした研究がどのように実施できるのだろうか。実際に特定領域研究全体での調査が開始される前に本計画研究なりの一定のアセスメントを得たいと考えて、ジャバル・ビシュリの自然環境とそこにある遺跡の状 況を確認するために、2日間の短い現地視察を試みた(2005年12月26日〜27日)。本稿はその視察結果を紹介するものだが、これはもとより計画的な踏査ではなく、ごく短期間のうちに目についた遺跡を見て回っただけの不十分な視察に過ぎない。西アジ アで考古学的な調査を長年おこなってきた者が現地を見た印象として、受け取っていただければ幸いである。
ジャバル・ビシュリは、ラッカ、ディ・エッ・ゾール、アル・シュクネの3地点を結んだ内側に位置する、東西約60km、南北約30kmほどの、山地と言うよりも台地である (図1)。アル・シュクネ側から最初に見えるジャバル・ビシュリも、平原の中に平坦な台地が浮き上がっているように見える(写真1)。
実際の標高は800〜900mで、 周りの平原との比高差も数 百mしかない。しかしなが ら、ユーフラテス河を北メ ソポタミア方面からシリア に上ってきたときに最初に 見える台地であり、ラッカ 方面から下ってきたときも、パルミラ方面からディ・エッ・ゾールに向かうときにも、ランドマークとして目に入る台地である。そうした意味で、初期王朝時代より遊牧系アムル人の故地として粘土板文書で盛んに言及されてきたことも(
本ニューズレターNo.2 山田重郎「文書史料におけるセムの系譜、アムル人、ビシュリー山系」
)頷けるかもしれない。
比高差の低い台地なので、ジャバル・ビシュリ内へはきわめて容易にアクセスできる。現在ビシュリ内へは、東側のディ・エッ・ゾール、南東側のアル・ショウラ、北側のアル・サブハを結ぶアスファルト道路が走っていて、西側を除いてアプローチはよく整備されている。筆者も、南東側のアル・ショウラからビシュリ内に入り、ほぼ中央のアシュ・シュジェイリからアスファルト道路を外れて南下し、ジャバル・ビシュリの南東部を中心に遺跡を見て回った。また、後述するビール・ディッディへは、カバジェブ付近から砂利道を北上して到達している。
図1 ジャバル・ビシュリの位置
写真1 ジャバル・ビシュリ遠景
アル・ショウラからアシュ・シュジェイリ
ジャバル・ビシュリ南東のアル・ショウラから台地中央へは、前述したようにアスファルト道路が整備されている。筆者がここを訪れた12月末には、このアスファルト道路の両側に、ベドウィンたちが多数のテントを張っていた(写真2)。ベドゥインのテント間の距離はかなり短く、遊牧民銀座の様相を呈している。ここまで多数の遊牧民テントが密集して営まれている状況を、筆者が見たのは初めてだった。
彼ら近現代の遊牧民が残した多数のキャンプ址が、ビシュリ内に多数認められる。キャンプ址の中にはもう少し古い時期のものもあると考えられるが、多くはここ数百年〜数十年で残されたものと見て間違いない。通常は、ごく単純な石列や炉跡などが残されるが、中にはタノールや家畜用の水飲み場を設けたキャンプ址もある(写真3)。こうしたキャンプ址は、1度の利用というよりも、同じ集団によって繰り返し利用されていたものと思われる。キャンプ址の営まれているのは、近くにワディが走っている場所が多い。ワディの近くに井戸を掘り、そこから生活用水や家畜用の水を得ている。
写真2 ベドウィンのテント群
アシュ・シュジェイリから南下
ビシュリのほぼ中央部アシュ・シュジェイリからは、いくつかの未舗装道路が西と南に走っている。筆者はこのうち、中央部やや東よりの地点から広い未舗装道路を南下した。東西に走る尾根を越えると、南北方向にいくつかの尾根が連なるが、その尾根上には点々とケルン墓が認められる(写真4)。広い場合は数q、近い場合では数十mほどの間隔で構築されているが、多数のケルンがまとまって営まれている例は見なかった。近づいてみると、土と石で積み上げた径10m前後のケルンが多く(写真5)、中には石だけで積み上げたものもある。石で方形に組まれた主体部が露出しているものもあり、明らかに墓であろう。僅かに表採できる土器片はイスラーム期のものがほとんどで、一部ローマ=ビザンツ期まで遡る可能性のあるものもある。ケルン墓の付近に集落址となるような遺跡は全く認められないため、これらのケルン墓が遊牧民たちによって残された可能性は非常に高い。また、ケルン墓の近くにストーンサークル状の遺構が観察できた例もあり、表採遺物からみると、ケルン墓よりもやや古いローマ=ビザンツ期のものと思われる。やはりこれも、遊牧民たちが残した墓であろうか。
写真3 近現代遊牧民のキャンプ址
写真4 尾根上に点々と見られるケルン墓
写真5 尾根上に認められるケルン墓のひとつ
ビール・ディッディ
ジャバル・ビシュリ内で最も水が豊富に得られる地点のひとつが、台地南端のほぼ中央に位置するビール・ディッディ(ディッディの井戸)である(写真6)。
ビール・ディッディへは台地中央から南下するのはかなり困難であり、筆者はビシュリの南側を走る幹線道路から、未舗装道路を北上して直接到達した。ビール・ディッディは、ローマ=ビザンツ時代と見られる岩窟(写真7)やストーンサークル(写真8)、近現代イスラームの墓(写真9)、時代不明の水場遺構(写真10)などが集まっている複合遺跡である。その中心は、現代も使用されているディッディの井戸であり、この井戸は、ワディ底付近につくられている(写真11)。
写真6 ビール・ディッディ
写真7 ローマ=ビザンツ時代と想定される岩窟
写真8 ビール・ディッディ付近のストーンサークル
写真9 近現代イスラームの墓
写真10 時代不明の水場遺構
ビール・ディッディ付近で表採できる遺物は、ローマ=ビザンツ期からイスラーム期の土器片が圧倒的に多く、基本的にはそうした時代を中心に営まれてきた複合遺跡ということができよう。岩窟やストーンサークルは、おそらくローマ=ビザンツ期の墓と考えられるだろう。水場遺構も同様の時期であろうか。ビール・ディッディは現代の遊牧民たちにも盛んに利用されており、付近の自然丘陵上には彼らの墓が造られている。自然丘陵上の薄い文化堆積やオスマントルコ時代と思われる小さな家屋を除くと、定住集落と見られるような遺跡はまったくといってよいほど認められないため、ビール・ディッディは現代と同様に、古くから主に遊牧民によって利用されてきたと考えて大過ないであろう。
写真11 現在も使用されているディッディの井戸
遊牧民研究のフィールドとしてのジャバル・ビシュリ
筆者がジャバル・ビシュリを視察したのはわずか2日間であったが、目にできた遺跡のほとんどが、遊牧民が残したものと想定できる遺跡であった。
ビシュリ内で最大の複合遺跡と見られているビール・ディッディもまた、定住農耕民や交易民が残した遺跡というよりも、遊牧民が古くより利用していた遺跡と考えることができる。つまり、農耕民の遺跡や都市遺跡といったものは、筆者の視察ではジャバル・ビシュリ内にほとんど認められなかった代わりに、遊牧民に関わると思われる遺跡が相当に集中していることが判明した。これらの遊牧民に関わる遺跡の年代は、その多くがローマ=ビザンツ時代やイスラーム時代、そして近現代に営まれたものであるが、鉄器時代や青銅器時代に遡る遊牧民の遺跡が発見できる可能性もある。
また遺跡踏査を本格的におこなえば、旧石器時代のオープンサイトなども発見できるであろう。
ジャバル・ビシュリの外縁のうち、特に西側と北側には、Strata Diocletianaと呼ばれるローマ軍の防衛前線が敷かれていたが、その防御対象は主に遊牧民であった。こうしたライン上には、ルサーファやハレビヤといった著名な遺跡が並び、また小さな要塞や軍事拠点も多数存在している。
初期イスラーム時代においても、ジャバル・ビシュリの南西麓には著名なカサル・アル・ヘイル・シャルキ遺跡が位置しており、この要塞も砂漠の部族からウマヤド王朝を防衛することがその建設目的のひとつに考えられている。つまり、ローマ=ビザンツ時代から初期イスラーム時代にかけて、ジャバル・ビシュリの西側を境に、帝国的な社会と遊牧社会が対峙していた様相が色濃い。その辺りはまた、100〜200oの降雨量線が東西を分けているラインでもあり、農耕牧畜社会と遊牧社会との境界ともなっている。
とすると、ジャバル・ビシュリ内は当然のことながら遊牧社会のホームランドとして、遊牧民たちの生活の主要舞台となっていたものと考えられる。それは現代のジャバル・ビシュリの状況ともよく符合している。今回は残念ながらローマ時代以前の遺物をビシュリ内の遺跡で目にすることがかなわなかったが、おそらくビシュリ内にそうしたより古い遊牧民遺跡を見出すことはそれほど困難とは思えない。
いずれにせよ、ジャバル・ビシュリを舞台にして遊牧的な部族社会の出現と展開を追究するのはきわめて実りの多い仕事になると思われ、こうしたテーマを研究するための第一級の考古学フィールドということができるだろう。
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