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「文書史料におけるセムの系譜、アムル人、ビシュリ山系」 |
山田重郎(筑波大学大学院人文社会科学研究科) |
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「セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究」という特定領域研究に取り組むにあたり、文献学の立場からキーワードについての基礎的データを整理するのが本稿の目的である。特に、セム系遊牧民とその源郷とされるビシュリ山についての古代西アジアの文書史料のデータを、前3千年紀から前2千年紀前半を中心に整理したい。
「セム」とは本来、大洪水を生き残って西アジア諸族の祖となったノアの長子として旧約聖書創世記に登場する人名(ヘブライ語でシェム)である。創世記によれば、神は天地創造の仕上げとして自ら創造した人間の行いが悪いことを嘆き、洪水を送ってすべての生き物を滅ぼそうと決意した。しかし、神に忠実であったノアには箱舟を作らせ一族とともに洪水を生き残ることを命じたという。ノアとともに箱舟に乗り生き残った3人の息子の名は、セム、ハム、ヤフェトであった。一般に「民族表」とよばれる創世記10章は、3人の息子たちから別れ出た子孫たちの名として西アジアとその周辺の民族名、部族名、地名に言及して、各地の諸族はノアから別れ出た血縁集団であると説明する。
ヤフェトの子孫は、エーゲ海、アナトリア、イランのインド・ヨーロッパ語系を中心とする諸族である。ハムの子孫は、エジプトとその周辺世界の諸族。そしてセムの子孫は、メソポタミア・シリアの諸族でありイスラエルの祖となるエベルを含む。「民族表」は、前2千年紀後半から前1千年紀前半の主要な国家名・部族名ならびに地名を含んでいる。地理的・政治的結びつきが重視されており、必ずしも言語的均質性によってまとめられているわけではない。セムに関していえば、旧約聖書のセムの子孫に数えられる諸族には、アシュル、アラムのように言語的に明らかにセム語系(後述)に属するものの他にエラム系、アナトリア系、フリ系などの非セム語系の諸族が含まれている。その一方で、言語的にセム系であるはずのカナンはハムの子孫に数えられている。「セム人」についての現在の辞書・事典にみる一般的定義は、「現在においては主にユダヤ人とアラブ人によって、また古代においては、さらにバビロニア人、アッシリア人、アラム人、カナン人、フェニキア人等によって代表される西南アジアの人々」というものである。これらセム人の話す諸言語は、アフロ・アジア系言語という大言語グループのなかで最大のサブ・グループである縁戚言語集団を形成し「セム語」と総称される。セム系諸語は、複数の共通する言語学的特徴を有する。
3子音を語基とする独特の語形成をし、基本語彙が共通であること。動詞が完了・未完了からなるテンス・アスペクト・システムを有し、接頭辞、接尾辞をともなって人称と数によって特徴的な活用をすること、などである。アッカド語、アムル語、アラム語、フェニキア語、ヘブル語、アラビア語、エチオピア諸語などに共通して見られるこうした言語学的特徴は、これらの言語の話者たちの間に存在した何らかの歴史的・文化的関係を示唆するものと考えられる。
「セム」という語は、特に欧米において、非ヨーロッパ系の主要なマイノリティー・グループとなったユダヤ人を指してしばしば用いられた。こうしたもっぱらユダヤ人を意味する狭義の「セム」の用法は、メソポタミア・シリアのセム系諸民族を包括的に示す「セム」の本来の広い語義から切り離されて、反ユダヤ主義を意味する「アンティ・セミティズム」のような現代政治上の用語として再加工され、ヨーロッパと中東の民族問題を論じる際に頻繁に用いられている。その一方で、「セム」はセム系言語という歴史的実体によって裏付けられた包括的な言語学的・歴史学的概念として、古代西アジア研究において用いられる語なのである。例えば、標準的なアラブ史として多くの読者を得てきたP.
K. ヒッティのアラブ史(Hitti 1937)の第1章のタイトルは、「セム人としてのアラブ人:セム系民族の故地としてのアラビア(The
Arabs as Semites: Arabia the Cradle of
the Semitic Race)」である。ヒッティはセム人は故地アラビア半島から各地へ拡散していったという見解を採用したうえで、セム人の民族的純粋性は、海と砂漠によって周囲から地理的に隔絶したアラビア半島のアラブ人に特によく保たれたと考えている。後述するように、前3千年紀から前2千年紀にかけてのデータが増え研究が進展してきた今日では、こうした仮説は細部において見直しを迫られるものであろうが、今日的学術書のなかで「セム」が特にアラブ人と結び付けられている例として挙げておきたい。
言語学的基準による現行の「セム系」の定義に従えば、古代西アジアにおいてセム系住民の系譜をたどることは、文字資料においてセム語の使用を追跡することにほぼ等しい。文字資料によってメソポタミアで話されていたことが追跡できる最古の言語はシュメル語であり、その使用は遅くとも前2800年頃に遡ることができる。最古の文字とされるウルク第IVa層の古拙文字がシュメル語をあらわすものであれば、さらに前3200年頃までさかのぼる。ともあれ、すでに前3千年紀前半のメソポタミアにおいて、シュメル語と並んでアッカド語を中心とするセム語もまた使用されていたことは確実である。例えば、初期王朝時代I期(前2900-2750年)に相当するとされるシュメル王名表において洪水後最初に王権が下った都市キシュの王たちの名としてシュメル語人名と並んでアッカド語あるいはそれに近いセム系言語の人名が含まれている。Pala-kinatim(「正しきものの治世」の意)、Kalibum(「犬」)、Zuqaqip(「サソリ」)、Tizkar(「(神を)記憶せよ」)などである。前2600年頃のテル・アブ・サラビーフ出土のシュメル語文書の書記名にも複数のセム語の人名が含まれている。また同時期のファラ文書(前2600年頃)に含まれる農夫のリストには、E2-su13-ag2
というシュメル語人名に続いてmar-tuと記され、この人物がシュメル語でmar-tuと呼ばれたセム系アムル人(後述)であることが記録されている。こうしたアッカド王朝時代(前2334-2154年)以前のアッカド語あるいはそれに近似する古セム語を使用した人々の痕跡は、メソポタミア南部に限定されず、1970年代からのエブラ、テル・ベイダル、マリの楔形文字文書の研究により、さらに北シリア、ユーフラテス川中流域、ハブル川上流域でも確認されるようになった。そしてアッカド王朝時代以降、メソポタミアとシリアにおいて、アッカド語やアムル語などのセム語の地位は揺るがぬものになっていた。
古代西アジアの文書史料に確認される最古のセム系遊牧集団として注目されてきた人々がアムル人である。彼らはシュメル語でマルトゥ(mar-tu)、アッカド語でアムル(Amurrû)と呼ばれ、旧約聖書でイスラエルのカナン定着以前の先住民族の一つとして言及されるアモリ人(èmorî)と同定された。民族名・地名としてのマルトゥ/アムルは、メソポタミアの文書において、シュメル人やアッカド人と区別される外来の人々を指しており、前述の前2600年頃のファラ文書中での言及が初出である。また、マルトゥはメソポタミアから見て西の方角を指す語としても用いられたが、この語義では、アッカド王朝の3番目の王マニシュトゥシュ(前2269‐2255年)のオベリスクに言及される「西の風[=方向](tu15
mar-tu)」が最も古い。このことは、おそらく、マルトゥ/アムルが本来メソポタミアの西に位置する地名であり、そこを故地とする人々がマルトゥ人/アムル人と呼ばれたことを示唆するものであろう。
マルトゥ/アムルを特定の地名と結びつけるデータも複数残っている。前2300年頃のエブラ文書は、マルトゥ(mar-tu.KI)をユーフラテス川沿いのエマルとバリフ川河口地域のトゥトゥルに関係づける。また、アッカド王朝第4代のナラム・シンはユーフラテス川を超え「マルトゥの山であるバサル山(Ba-sa-ar
SA-DU3-i3 MAR.TU.KI)」に達し、そこで戦ったことを記録する。ここに言及されるバサル山は、パルミラの北東に位置する現在のビシュリ山を指していると考えられる。ナラム・シンの後継者であるシャル・カリ・シャリもまた年名「シャル・カリ・シャリがバサル山においてマルトゥを打ち破った年(in
MU sar-ka3-li2-LUGAL-ri2 MAR.TU-am in ba-sa-ar.
KUR is11-aru)」においてマルトゥとビシュリ山を結び付けている。この遠征の目的は必ずしも明らかでないが、メソポタミアの農耕地に進入する遊牧民に対する懲罰遠征であった可能性が高い。アッカド時代の直後にあたるラガシュの支配者グデアの碑文(Statue
B)において、グデアは神殿建設に際して「マルトゥの山であるビシュリ(バサラ)山(ba11-sal-la
hur-sag Mar-tu-ta)」ならびに「マルトゥの山であるティダヌ山(ti-da-num2
hur-sag mar-tu-ta)」から石材を運び込んだことを誇っている。ビシュリ山をマルトゥ/アムル人の山とする伝統はさらに後代にも引き継がれた。新アッシリア時代の写本が複数知られているlipsur
litanies とよばれる祈祷書には、ビシュリ(バシャル)山(KUR
Ba-sar2)がアムルの地の山(KUR A-mur-ri-i)として言及される。また、ティグラト・ピレセル1世(前1114−1076年)の年代記はビシュリ(べシュリ)山(KUR
be2-es-ri)のふもとの遊牧アラム人(Ahlamu-Aram)の6つの「町々」(小集落?)の破壊を記録しており、これもセム系遊牧民とビシュリ地域を結びつける記録として興味深い。
メソポタミアにおけるマルトゥに話を戻すと、アッカド王朝時代には、マルトゥと呼ばれる外来の移住者についての言及がラガシュ、ウンマ、アダブ、スサなどメソポタミアとその周辺で増加する。アッカド王朝時代の文書に見られる官職名ugula
mar-tuおよびnu-banda3 mar-tu-neは、マルトゥ人たちの隊長あるいは指揮官を意味し、彼らが当時の都市行政内で一定の軍事的役割を担っていたことをうかがわせる。
ウル第3王朝時代(前2112−2004年)に入ってマルトゥについてのデータはさらに増える。特にウル第3王朝の家畜税の集積地であったプズリシュ・ダガンからの文書には、家畜(ヒツジ、ヤギ)の提供者としてマルトゥについての多数の言及が見られる。イシン、ラルサ、ウンマなどにも労働者として配給を受けるマルトゥについての言及がある。この時代、特にメソポタミア南部において、マルトゥの一部はすでに都市住民として定着し都市文化に同化していたように見える。一方、西方からメソポタミアへのマルトゥの流入は継続しており、ウル第3王朝時代後半において、ウルの広域支配を脅かす侵入者してのマルトゥは無視できない存在となり、彼らに対する遠征や、彼らの侵入を防ぐ城壁建設が企てられたことはよく知られている。シュメル語で書かれた神話「マルトゥの結婚」のマルトゥ神に託された不毛の地に住む野蛮人としてのマルトゥのイメージは、メソポタミアの本来の都市住民から見たマルトゥ観を反映するものであろう。ただ、マルトゥがメソポタミア西方の彼らの故地においてどのようなライフ・スタイルで生活していたかをメソポタミアに由来する文学テクストに依拠して判断するわけにはいくまい。時代は多少下がるものの、古バビロニア時代のマリ文書は、当時のアムル人の生活形態がユーフラテス中流域での定住を基礎とする半農・半牧畜であり、牧羊者としては短距離移動型であったことを示唆する。こうしたアムル人とメソポタミアに大挙して殺到したアムル人のライフ・スタイルを同一のものとして捉えることはできない。
ともあれ、古バビロニア時代(前2千年紀前半)には、アムル語の人名をもった個人がラルサ、バビロン、マラド、ウルク、シッパル、キシュ、マリなどのメソポタミアの主要都市の支配者として現れる。そして、アムル人がメソポタミアの主要な人口構成要素になるにつれて、個人をマルトゥ/アムルとしてわざわざ指示する慣行はしだいに失われた。アムル人の諸部族は、マリ文書などに見るように、より小さなサブ・グループを代表する部族名(例えばハナ人、ビニヤミナ人など)によって呼ばれるようになった。古バビロニア時代後期に至ると、アムル語の人名を持った個人を多く内包するメソポタミアにおいて、民族的呼称としてのアムルという語はあまり使用されなくなる一方、シリア一体あるいはその一部の地域が「アムルの地」と呼ばれるようになっていった。
先述したとおり、アムル人は前3千年紀半ばにはメソポタミアにいた。この事実に加え、近年のエブラ、マリ、テル・ベイダルにおける前3千年紀の古セム語文書の発見によって、前2000年頃にアムル系遊牧民がシリア砂漠から周辺各地に大移動して拡散したとするかつて広く受け入れられてきた仮説は見直しを迫られてきた。そこで、長年シリア各地で発掘調査を行いアムル人に関わる文書研究をも主導してきたG.
ブッチェラティが提案する仮説(Buccellati 1992)に言及して本稿を結びたい。
ブッチェラティは、アムル人は本来前2千年紀のマリ文書に見られるようなユーフラテス中流域の半農・半牧畜の村落住民であったとし、以下のように推察する:これら村落民たちは川沿いに限定された農地を耕作する一方、広大なステップ地域に牧畜による経済活動の拡大を企て、おそらくすでに前3千年紀からマリの都市の権力と独特の関係を保っていた。こうした住民たちの一部はステップの遠方まで進出して都市の支配から離脱し、民族意識を醸成しつつ本格的に遊牧民化し、遠距離を移動して各地に拡散した。このパターンは早期からあったが、それが最も大規模に起こったのが、前3千年紀末から2千年紀初めであったという。
エブラ文書の研究が進むにつれて、エブラ語は当初の予想を裏って西セム語よりも東セム語である古アッカド語に近い言語であることが明らかになった。これによってユーフラテス川大湾曲部の西側を西セム語圏、東側を東セム語圏とする従来の見方は破綻した。これに関連して、現状で知られているセム系言語の歴史的分布をブッチェラティは次のように説明する:
@前3千年紀において、アムル語はユーフラテス中流域とその周辺の村落言語として、アッカド語はメソポタミア・シリアの諸都市に流布した都市言語として、対比的に捉えられる。
A両者は本来広い意味で共通の特徴をもった言語(古北セム語[Early
North Semitic])だったが、保守的で変化しにくい村落言語アムル語の方が本来の言語的特徴を保ち、アッカド語は時代とともに急速に変化していった。
B両者はしだいに言語としての隔たりを大きくしていき、前2千年紀後半にはユーフラテス中流域の村落が離散した結果西へ流入したアムル系住民が西セム語グループ(アラム語、フェニキア語、カナン語等)の祖となって、西セム語と東セム語(アッカド語)との地理的棲み分けが実現した。
ブッチェラティの仮説は、前3千年紀半ばから前2千年期前半のシリア・メソポタミアの文書史料に見るアムル人とセム系言語に関するデータをダイナミックに説明しており、今後の研究のたたき台となるものといえる。アムル人の地として古い伝承が残るビシュリ山とその周辺地域をめ
ぐる新たな調査研究の成果も、こうしたパラダイムと対照しつつ分析されるべきであろう。
(2006年1月28日 記)
執筆にあたり、前川和也先生に草稿をご覧いただき、貴重なご指摘をいただいたことで、いくつかの誤謬を免れることができた。記してお礼申し上げたい。なお本稿に残る問題点については、言うまでもなく全面的に筆者の責任である。
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