本研究の概要
本研究の趣旨
調査最新情報
画像データ
お知らせ



 調査最新情報 
文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.7(2007年7月号)より
2007年度ビシュリ山系北麓ケルン墓サーベイ
藤井純夫(金沢大学文学部)
計画研究「セム系遊牧部族の墓制に関する比較研究」研究代表者
足立拓朗(中近東文化センター附属博物館)
計画研究「セム系遊牧部族の墓制に関する比較研究」研究分担者
1.はじめに
 2007年5月18日から6月1日までの約2週間(実質1週間強)、ビシュリ山系北麓における青銅器時代ケルン墓の分布調査を実施した。
同年2月に実施した予備調査(藤井2007)が調査区全体の下見にとどまったのに対し、今回は個々のケルン墓の記録や計測をも含めた本格的なサーベイとなった。ただし、日程的な制約のため包括的な踏査は断念し、将来の発掘対象となるケルン墓群の選定を優先課題に据えて踏査した。担当したのは、計画研究班「セム系遊牧部族の墓制に関する比較研究」の研究代表者(藤井)・分担者(足立)および協力者(鈴木香枝)の、計3名である。シリア側からは、モハムード・アル・ハサン(Mohmudal-Hassan考古局ラッカ支局)が、査察官として同行した。以下は今回の踏査の概報である。

 
2.調査方法


図1 調査区とその区割り(×:道標ケルン、■:ケルン墓)


図2 ケルン墓と積み直し道標ケルン
(ハイユーズ=ケルン墓群02号ケルン墓)
 日程的制約がある中での広域踏査は、ややもすると焦点のぼやけたものになりがちである。そこでまず、調査区域(北はユーフラテス河、南はビシュリ山系の東西尾根筋、東はガーナム・アリ道路、西はマンスール=スフネ道路によって囲まれた、一辺約50−60km、総面積約300平方kmの逆台形状のエリア)を、道路や轍によって7区画に分割した(図1)。このうち、ユーフラテス河畔の沖積地(1区)については別の計画研究班が踏査を終えていたので、今回の踏査対象からは除外した。残りの6区画を北側の台地・平原部分(2〜4)と南側の山麓部分(5〜7区)に大別し、前者の側から調査を開始した。

  まず、北側の台地・平原部分から。このエリアにケルン墓が希なことは前回の予備調査で確認していたので、今回は、シリア国土地理院発行の5万分の一地図に「Rujm(ケルン)」または「Rijum(その複数形)」と記載された地点(地図の×印)のみを、集中的に踏査した。踏査は、宿舎のあるラッカ市から遠い順(つまり、4区から2区の順)に実施した。近くまで行ったが正確な位置を確認できなかった事例、それすら早々と諦めた事例もあるが、踏査としてはほぼ全域をカバーした。この踏査には、調査前半の3日間を費やした。

  台地・平原部分の踏査終了後、一日の休日を挟んで、ビシュリ山系の北麓に踏査を移した。前回の予備調査で地図に記載されていないケルン墓群の存在を多数確認していたので、このエリアでは地図の記載に頼らず、悉皆調査に近い精度で踏査した。しかし、何分にもアクセスが悪すぎた。宿舎のあるラッカ市とこのエリアとの往復に、毎日約4時間。ケルン墓群を遠望した後、轍を辿ってアプローチするのに片道約1時間。よって残りの時間は少なく、一日に1〜2件、全体で4件の踏査が精一杯であった。個々のケルン墓群の規模が大きく、かつ分散型であったことも、作業効率を悪くした。小縮尺の地図を利用できなかったこと、にもかかわらずGPSの利用を禁じられていたことも、大きな障害となった。

  もう一つ、問題があった。それは、現地の遊牧民が青銅器時代のケルン墓を古い道標と見なしており、そのため、ケルン中央にわざわざ石を積み直して小規模の道標ケルンに仕立て直していたことである(図2)。このことが、作業効率のさらなる低下を招いた。なぜなら、遠望して明らかに新しいケルンの場合も、その下に本来のケルン墓が残っている可能性があり、逐一、観察してみなければならなかったからである。そのためのロスも大きかった。
幸いだったのは、踏査の早い段階で有望なケルン墓群(後述)に遭遇したことである。これによって、近い将来の発掘対象を確定するという当面の課題だけは、何とかクリアーすることができた。時間的制約のある中で有望なケルン墓群を選定できたのは、ビシュリ北麓の寒村ビイル・ラフーム(Bir Rahum)で偶然知り合ったベドゥイン青年、アリー君のおかげである。その土地で生まれ育った人にはかなわない。毎度のことではあるが、そのことを改めて痛感した。

 なお、遠望しただけで実際には踏査していないケルン墓群が多数残ったが、これは今後の課題である。しかし、これらのケルン墓群はアクセスの難しいものばかりであり、ラッカ市との往復では踏査はもはや不可能である。宿舎自体をビシュリ山系北麓の村に移す必要があろう。そこで、本計画研究班では以下の方針をとることにした。すなわち、発掘対象のケルン墓群を確定したこの段階で、分布調査を一端中断。ビシュリ山系北麓に宿舎を移して、できるだけ早い時期に試掘・発掘調査に移行。その作業と平行して、分布調査の範囲を徐々に拡大する、という方針である。今後はこの方針で臨みたい。


3.台地部分の踏査

図3 ジャズラの竪坑墓群(南から)


図4 アブ・ハマドの竪坑墓群(西から)

 結論から先に言うと、地図上に「Rujm何々」または「Rijum何々」と記載されたものは、すべて近年の道標または三角点としての石積み・土盛りであった。(よって、地図上のRujm/Rijumは、「ケルン墓」というよりもむしろ「道標」の意味で用いられている可能性が高い。)前回の予備調査で予想されていたことではあるが、青銅器時代遊牧民のケルン墓と目される事例は、このエリアには皆無であった。無論、見落としが無いとは断言できないが、少なくともケルン墓がこのエリアに希薄であることだけは確かであろう。

  ところで、「ケルンCairn」には実際には様々な機能がある。このうち、埋葬目的のものだけを「ケルン墓」と定義している。本計画研究班の調査対象が、これである。それ以外のケルンとしては、例えば、道標ケルンや記念碑ケルン、あるいは祈願ケルンなどがある。これらは比較的新しいものが多く、我々の調査対象ではない。では分布調査の段階でどうやって両者を識別するのかというと、決め手は内部構造の有無にある。ケルン墓は、通常、埋葬を想定した空間(シスト部分)を中央に組み込んでいる。ケルン墓が盗掘されている場合、幸か不幸か、その存在が露呈することがある。一方、道標ケルンなどは単なる石積みに過ぎないので、明確な内部構造を持たない。もう一つの違いが、付帯遺構の有無である。ケルン墓は埋葬施設であるから、墓本体以外にも様々な葬祭関連遺構を伴うことがある。一方、道標ケルンなどの場合、それは稀である。加えて、分布形態も異なる。密集型・分散型の違いはあるにしても、ケルン墓は単独では存在せず、ケルン墓群を形成することが多い。これは、一つの墓域が部族の聖地として長期間使用され続けるからである。道標・祈念碑・祈願ケルンの場合、そのようなことは稀である。よって、それらは単独または少数の群を形成しているに過ぎない。分布調査の段階でもケルン墓とそれ以外のケルンをある程度識別できるのは、以上の理由による。

  さて、中間エリアにケルン墓群が希薄であることは再確認できた。しかし、このエリアに別のタイプの墓域が無いのかというと、必ずしもそうではない。ビシュリ台地の北縁部で、ジャズラ(Jezra)やアブ・ハマド(Abu Hamad)など、前期青銅器時代の竪坑墓群が確認されているからである(図3,4)。後述するように、これらの竪坑墓群はユーフラテス河畔に点在する定住農耕社会側の墓域と考えられる。

4.ビシュリ山系北麓の踏査

 このエリアでは、平坦な北半部を飛ばして起伏のある最南端部分、すなわちビイル・ラフーム村の周辺から踏査を開始した。前回の予備調査で、この地域にケルン墓が集中することを確認していたからである。踏査の結果、以下に述べる4件のケルン墓群を確認・仮登録した(図1)。


図5 ヘダージェ1=ケルン墓群遠景
(手前から順に8号、9号、10号ケルン墓)
ヘダージェ1=ケルン墓群(Rijum Hedaj 1)

ビイル・ラフーム村の東約7kmにあるテーブル状台地の上に位置する。計14基のケルン墓から成るが、そのうちの9基(2〜10号ケルン墓)は、石灰岩岩盤の覗く台地南縁に、互いに100m前後の距離を置いて連なっていた(図5)。その全長は、約1kmである。一方、石灰岩露頭のない台地北縁には、わずか1基(11号ケルン墓)のみが築かれていた。ただし、台地
北東端の舌状台地(石灰岩露頭があって浸食を免れている)には、3基のケルン墓(12−14号ケルン墓)が集中して築かれていた。

 ケルン墓の保存状態は、比較的良好であった。(ただ、前述のように、道標ケルンとしての部分的積み直しは随所に見られた。)ケルン墓は通常円形プランで、直径は約4〜13m、比高は最大約1.5mであった。建材には、周囲の露頭から運んだと思われる未加工かつ粗質の石灰岩(20−50cm大)が用いられていた。09号ケルン墓はその規模の点で、10号ケルン墓は基礎壁(図6)および長さ約70mの独立壁(図7)を伴う点で、14号ケルン墓は大型の周壁を伴う点で、それぞれ注目される。

図6 ヘダージェ1=ケルン墓群:
10号ケルン墓の基礎壁または周壁(西から)

図7 ヘダージェ1=ケルン墓群:
10号ケルン墓に付帯する独 立壁(北東から)


図8 ヘダージェ2=ケルン墓群:
03号ケルン墓のシスト(南から)
ヘダージェ2=ケルン墓群(Rijum Hedaj2)

 このケルン墓群は、ビイル・ラフーム村から東に約5kmの地点に位置する。前述のヘダージェ1=ケルン墓群からは南西に約1kmの距離で、ワディを挟んで対峙している。2本の小ワディに挟まれた舌状台地の突端部に、3基のケルン墓が築かれていた。ケルン墓の直径は約3〜7m、比高は最大約0.6mであった。このケルン墓群は密集型で、互いに10m前後の距離を置くのみであった。1号ケルン墓は小型の矩形遺構と独立壁を伴う点で、3号ケルン墓はその中央に矩形のシストを露出している点で(図8)、それぞれ注目される。


図9 ハイユーズ=ケルン墓群:
02−09号ケルン墓の遠景 (東から)
ハイユーズ=ケルン墓群(Rijum Hayuz)

 ビイル・ラフーム村の東約15kmの地点に位置し、計9基のケルン墓から成る。01号ケルン墓は独立丘の頂上に単独で築かれていたが、他の8基のケルン墓は、南北に連なる丘陵尾根上に、100m前後の距離を置いて並んでいた(図9)。ただし、それらは決まって尾根筋の頂上部を占めており、鞍部への築造例は認められなかった。ケルン墓の直径は約3〜13m、比高は最大約1.2mであった。2号ケルン墓は矩形遺構が付帯する点で、8号ケルン墓は幅の広い独立壁が付帯する点で、注目される。

アハマル=ケルン墓群(Rijum Ahmar)

 ビイル・ラフーム村の東約20kmの地点に位置する。丘陵全体の色調がやや赤味(我々の色彩感覚からすればむしろ褐色)を帯びていることから、この名がある。 計5基のケルン墓から成るが、3つの独立丘の頂上部分に1〜2基ずつ分かれて築かれていた。ケルン墓の直径は約2〜17 m、比高は最大約1.1mであった。01号ケルン墓は大型の矩形遺構を伴う点で(図10)、02号ケルン墓は明確な基礎壁または周壁を伴う点で(図11)、重要である。

図10 アハマル=ケルン墓群:<br>
01号ケルン墓(奥)と付帯遺構(手前)(南東から)

図11 アハマル=ケルン墓群:
02号ケルン墓の基礎壁または周壁(北西から)

 4件のケルン墓群の特徴は、以下のように要約できる。
  • 一件のケルン墓群は、3〜10数基程度のケルン墓によって構成されている。
  • ケルン墓群は見晴らしのよい、しかも建材調達の容易な(石灰岩露頭を伴う)丘陵尾根上に位置する。
  • ただし一口に丘陵尾根と言っても、実際には、テーブル状台地の縁辺部(リジューム・ヘダージェ1)と、独立丘またはその連続体の頂上部(リジューム・ハイユーズ、リジューム・アハマル)の、二種類がある。
  • ケルン墓群を構成する個々のケルン墓は、(平坦なテーブル状台地の場合ですら)互いに100m前後の距離を置いてほぼ直線的に連なっており、レヴァント南部のような密集群を形成しない。
  • ただし、ヘダージェ1=ケルン墓群の12〜14号ケルン墓のように、数件程度の内部的小型密集群を形成することはある。ヘダージェ2=ケルン墓群を構成する3基のケルン墓も、小型の密集群を形成していた。一方、個々のケルン墓の型式・構造に関しては、以下のような特徴が認められた。
  • 建材には、ケルン墓の周囲で調達可能な未加工かつ粗質の石灰岩が用いられている。
  • プランはほぼ円形、直径は約3〜17m、比高は最約1.5mである。
  • マウンドの中央に、しばしば矩形または楕円形のシストを伴う。その長軸は、多くの場合、南北方向である。(よって、イスラーム以前の墓であることは明からである。)
  • マウンドの外周に、(しばしばケルン本体とは異なる大型かつ良質の建材を用いた)基礎壁または周壁を伴うことがある。この部分の建材には、一部加工したものが含まれる。
  • マウンドの周辺にも独立壁や大小の矩形遺構などが付随し、全体として、小規模の建築複合体を形成することがある。

5.展望

 2回の現地調査を通して、この地域における青銅器時代の墓制に関して、以下のような見通しが得られた(図12)。

図12 南北二つの墓制と青銅器時代遊牧民の動向(模式図)
  1. テル・ガーナム・アリ(Tell Ghanam Ali)やテル・ハンマディーン(Tell Hammadin)など、前期青銅器時代のテル型集落遺跡が集中するユーフラテス河畔沖積地には、同時代の墓域は見あたらない。
  2. ただし、ユーフラテス沖積地との接点となるビシュリ台地の北縁には、ジェズラ(Jezra)やアブ・ハマド(Abu Hamad)のような竪坑墓群が存在する。表採土器の分析(長谷川敦章・木内智康の私信)によると、これらの墓域は近隣の集落とほぼ同時期と考えられる。出土遺物の内容から見ても、これらの竪坑墓群は定住農耕社会側の墓域であった可能性が高い。
  3. )一方、遊牧民のケルン墓群はビシュリ山系の北麓、特にビイル・ラフームの東部丘陵地帯に集中している。その年代は不明であるが、ジャフル盆地やゴラン高原のケルン墓との比較から、前期青銅器時代と想定される。だとすれば、これらのケルン墓群は台地北縁の竪坑墓群とほぼ同時期の、ただし遊牧民側の墓制と見なし得るであろう。「マルトゥ」「アムッル」の墓である可能性が高い。
  4. なお、両者の中間地帯では、竪坑墓群もケルン墓群も確認されていない。地図にRujm/Rijumと記載されたものの大半は、比較的新しい、単なる道標としてのケルンであった。よって、このエリアは墓域の空白地帯と定義できる。
 以上のことから、調査区内における前期青銅器時代の墓制は、南北二つのタイプに分類される。一つは、ビシュリ台地北縁における竪坑墓群である。これは、おそらくユーフラテス流域に点在する定住農耕集落(ないしは都市)の墓域と考えられる。耕作地の外側、日帰り放牧圏の縁辺に墓域を置くことによって、その内側が自らの領域であることを表示しているように思われる。(ヨルダンの調査でも判明していることであるが、前期青銅器時代の墓域は通常、生活圏の最遠端に形成され、そこから徐々に内側に延びるという傾向がある。)もう一つは、ビシュリ山系北麓のケルン墓群である。これは、明らかに先史遊牧民の墓域と定義できる。部族の聖地と定めるビシュリ北麓に墓域を置いて、自らのアイデンティティとしたのであろう。

 重要なのは、墓域が南北に分離しているからと言って、ユーフラテス流域の定住社会とビシュリ山系北麓の遊牧社会が互いに没交渉であったとは限らない、という点である。それどころか、現在の社会がそうであるように、両者の間には人的な出入りを含めて密接な関係があったと思われる。そのことを、両地域の平行発掘によって実証したい。その実証は、定住社会と「マルトゥ・アムッル」との具体的な相関を明らかにするという意味で、メソポタミア世界で起こったことの北方版シミュレイションとなり得るであろう。それだけではない。シュメールやアッカドの粘土板文書の言う「ビシュリ」が、必ずしも当該遊牧集団の生活圏そのものではなく、むしろ彼らの聖地・墓域・アイデンティティを指すに過ぎないということも、提示し得るかも知れない。

6.おわりに

 本特定領域研究申請時の主題に沿った複合調査が、ようやく実現しつつある。各班の調査成果が互いに重なり合い始めるのも、そう遠い先のことではあるまい。唯一の気がかりは、シリア側関係者の中に、青銅器時代ケルン墓の重要性を分かっていない人が多いことである。しかしこれは無理のないことで、シリアでは(占領地のゴラン高原を除いて)ケルン墓の調査はすこぶる低調であった。しかし、だからこそやりがいもある。早い時期に試掘・発掘調査に移行したい。

引用文献
藤井純夫
2007「セム系遊牧部族の墓制に関する比較研究:平成18年度研究報報告」『セム系部族社会の形成平成18年度 研究報告』(印刷中)