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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.6 (2007年3月号)より
ジャバル・ビシュリ周辺における遺跡分布とその立地の歴史的背景 ―第一次調査成果を中心に―
長谷川敦章(筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科)
計画研究「西アジアにおける都市化過程の研究」研究協力者
はじめに


図1 ジャバル・ビシュリ周辺の地形的特徴
(左図:シリア政府発行10万分の1地形図を一部改変。
右図:地域分類の模式図、筆者作成。)
 本稿は2007年2月〜3月にかけて、ジャバル・ビシュリおよびその周辺において行った考古学的踏査の成果概要を、遺跡の立地と分布を中心に示すことを目的とする。なお各遺跡の詳細な時期を含む採集された遺物とその分析に関しては、本誌に掲載されている木内氏の報告を参照していただきたい。

 本調査の対象地域であるジャバル・ビシュリ周辺は、その地形的特徴から大きく4つの地域に分類することができる(図1)。
第一にラッカとディ・エッ・ゾールを結ぶようにして流れるユーフラテス河の氾濫原である。その氾濫原はユーフラテス河より南側において、流れが蛇行しているため狭いところで南北に約1km広いところで約5kmの幅で、ユーフラテス河に沿って東西に広がっている。標高はおよそ210m〜230mほどである。氾濫原の殆どの部分が農地として利用されている。現在はシリア政府により灌漑整備がおこなわれ、計画的に水路が張り巡らされている。第二に台地の縁辺部である。台地の北の縁は標高およそ300mであり、ユーフラテス河の氾濫原に立って南方の台地をみると高さ約70mの壁がひろがるように見える。この壁のような台地の縁の中腹や氾濫原との境界にあたる地域には、現在、集落が多く分布する。第三の地域は、台地の縁からジャバル・ビシュリの裾までの、広くなだらかな台地上である。

図2 調査地全域における遺跡分布図
(シリア政府発行10万分の1地形図を一部改変)
ジャバル・ビシュリは、標高が800mほどであるが、台地の縁から南方を望むと、まるで平原のむこうに低く平坦な丘があるように見える。 ユーフラテス河の2つの三日月湖の間に位置し、台地の縁に張り付くように位置している町ハウイジャット・シュナン(Hauijt Shnnan)を通る南北軸で地形の変化を見た場合、標高約300mの付近からジャバル・ビシュリの山頂までは、直線距離にしておよそ70kmである。ジャバル・ビシュリは標高400m付近から徐々に隆起していくようであるが、台地の縁から標高400m地点までは約35kmあり、それは山頂までの約半分の距離である(図1)。すなわちこの南北軸における35kmの範囲が、第三の地域にあたる。 そして最後の第四の地域は、標高400m以上のジャバル・ビシュリの内部である。今回の調査では、上述した4つの地域区分のうち、第一の氾濫原、第二の台地の縁辺部、第三のほぼ平坦な台地上において遺跡を確認することができた(図2)。本稿では、この地域分類に即して確認した遺跡を概観していきたい。


台地の平坦部

 台地平坦部においては、ラッカ市より西側に遺跡が集中して確認された。はじめにそれらの概略を紹介したい(図2)。

バラーイット・テル・ハンマーム遺跡(Barayt Tell Hammam)

 マンスーラ(Mansura)から北東に約10km、バルダ(Baluda)村に位置する。なだらかで低いマウンドをもつ。中期旧石器時代およびイスラム時代の遺物が少量確認できる。

GCHS C113遺跡(Site GCHS C113)(写真1)

 バラーイット・テル・ハンマーム遺跡から1kmほど南に位置するテル型遺跡である。テルの頂上部には、一辺約20mの方形をする建築遺構の基礎が地表面に現れている(写真2)。ビザンツ瓦が大量に散乱しており、またビザンツ時代の土器片が採集できた。テル型遺跡ではあるが、青銅器時代の遺物は残念ながら確認できなかった。当該遺跡はコンクリートのベンチマークが設置されており、GCHS C113と刻まれている。

写真1 GCHS C113遺跡

写真2 GCHS C113遺跡の方形区画

アル・フラ遺跡(Al-Hura)(写真3)


写真4 アル・フラ遺跡の石棺
 マンスーラから東に1km、GCHS C113遺跡から南に2kmに位置する。南北45mほど、東西20mほどの低いマウンドを有する。また石膏を利用した、大きさ約2.2m×0.8mの石棺が東西方向に長軸を向け一基確認された(写真4)。


写真3 アル・フラ遺跡

テル・ムヘイル遺跡(Tell Muheir)

 マンスーラから南東に30kmに位置する中規模テル型遺跡である。自然丘陵上に埋葬施設等の痕跡が確認された。
当該遺跡も残念ながら採集された土器はイスラム時代のものが主体を占める。


テル・ムヘイル東遺跡(Tell Muheir East)

 テル・ムヘイル遺跡の東約1.5kmに位置する小規模テル型遺跡である。イスラム時代の土器を少量採集することができた。

ラサーファ北遺跡(Rasafa North)

 ラッカ市とラサーファ遺跡を繋ぐ道路の東側に面する、低いマウンドを持つ遺跡である。ラサーファ遺跡の北約2kmに位置する。

 2005年の常木晃氏の現地視察において、現在も使用されているビール・ディッディ(ディッディの井戸)を中心とした、ローマ=ビザンツ時代からイスラム時代を中心に営まれてきた複合遺跡が報告されている(常木2005)。
そこで類似した複合遺跡を確認するため、ビールを中心とした調査を行った。今回調査を実施したビールは、合計8カ所である。特にビールの多いラッカ市より東側の地域では、シリア政府発行の5万分の1の地形図に記載されている「ビール」を冠する地名をいくつか選択し、試験的に踏査した。
 西側の地域では以下の3遺跡においてビールを確認することができた。

ビール・クレディ遺跡(Bir Kredy)(写真5)

 マンスーラ(Mansura)から東に約15km、台地縁辺部から南方約0kmに位置する。円形の井戸であり、深さおよそ70mである。周辺からはいくつかの土器片が採集されており、ビザンツ時代以降の遺跡であると思われる。

写真5 ビール・クレディ遺跡
アル=カブ・アル=サギール遺跡(Al-Qabu al-Saghir)(写真6)

 マンスーラから南東に約24km、台地縁辺部から約15kmに位置する。方形の井戸であり、深さ約170mとビール・クレディより深い。周辺からはビザンツ時代の土器片が採集されている。

写真6 アル=カブ・アル=サギール遺跡
ヘルベット・アル=ハルール遺跡(Kherbet al-Halul) (写真7)

 ラサーファ遺跡から南に約25kmに位置する。円形の井戸とそれに接して15m×3mほどの方形給水施設がある。特にマウンドはないが、現代において遺構の建築材の石材を利用するため、井戸の周辺はかなりの範囲で掘り返されている。

 ラッカ市より東側の地域においては、ビールを冠する以下の5つの地点において踏査を行った。

写真7 ヘルベット・アル=ハルール遺跡(写真中央鉄材の下に円形の井戸あり)
ビール・ブエイダン(Bir Bueidan)(写真8)

 ビール・ブエイダンは台地縁辺部から13kmほど南、ガーネム・アル=アリ村からジャバル・ビシュリへ到る道路の東方2kmほどに位置する。
井戸は直径約1.4mの円形で、井戸の壁は玄武岩の岩を組んでつくられる。
また井戸から北東方向に幅約1.3m、長さ約10mのコンクリート製水路状施設が伸びている。おそらく羊やヤギといった家畜のための給水施設であろう。現在は、水が涸れている。

写真8 ビール・ブエイダン
ビール・ハルダン(Bir al-Hardan)(写真9)

 ビール・ブエイダンの3kmほど南西、台地縁辺部から11kmほど南に位置する。井戸は直径2mほどでコンクリートにより囲まれている。
北西方向にはやはりコンクリートでできた方形の給水施設がある。
また、井戸から東西両方向にそれぞれ長さ15mほどの水路状給水施設の残骸が確認できた。現在は基礎になる玄武岩が部分的に確認されるのみである。現在は水が涸れている。

写真9 ビール・ハルダン
ビール・ハトゥン(Bir Khatun)(写真10)

 ビール・ハルダンの3kmほど東、台地縁辺部から9.5kmほど南に位置する。近隣の遊牧民の話によると、ハトゥンとはこの地に移住してきたアルメニア人の名前であり、その名前にちなんで井戸が名付けられたという。
またコンクリートで囲まれたこの井戸の水は、現在涸れてしまっているが、20年ほど前までは水を供給していたようである。ビール・ハルダンは北西方向に玄武岩、南東方向に石膏を利用した長さ約10mほどの水路状給水施設を有していたが、現在は基礎の一部が残存するのみである。

写真10 ビール・ハトゥン
ビール・アリ・アル=マジード(Bir Ali al-Mazyd) (写真11)

 ビール・カトゥンの南東およそ6kmに位置する。直径約1m、コンクリートで囲まれたこの井戸は、今回の調査対象の中で唯一水を蓄えていて、近隣の遊牧民の話では、30年ほど前まで実際に使用していたようである。
東西に延びる水路状給水施設も、コンクリートで全体が補強されている。

写真11 ビール・アリ・アル=マジード
ビール・マズラアット・アル= マナール(Bir Mazra,at al-manarh)(写真12)


写真12 ビール・マズラアット・アル=マナール
 ラッカ市から東約20kmに位置するハウイジット・シュンナン(Hauijt Shnnan)より南西に約3km、台地縁辺部から南に約3.5kmに位置する。ビール・マズラアット・アル=マナールは上述した4つの井戸とは違い、低いマウンドの中心に位置し、岩盤を1.2×1.8mほどの方形に彫り込んだ井戸である。
井戸の西側に給水施設のような痕跡が確認されるが、詳細は不明である。少なくともこれまで見てきた水路状に長く延びた施設ではなさそうである。現在、水は涸れている。

 ラッカ市の西側で確認したビールの周辺には、ビザンツ時代以降の遺跡が点在していることが今回の調査から明らかになった。この三つのビールからも同じくビザンツ時代以降の遺物が採集されていることから、同時期に周辺に水を供給していた可能性が考えられる。しかし、ビール・ディッディに比すると極めて小規模であると言わざるをえない。また残念ながら青銅器時代の遺物を確認することはできなかった。
 一方、ラッカ市より東側の5箇所のビールの調査では、残念ながらいかなる時代の遺物も確認することはできなかった。調査中に出会った遊牧民の話では、これらの井戸はおおよそ30年ほど前までは実際に使っていたようである。
しかし、現在はユーフラテス河の水を給水車が台地の上まで運んでくるそうで、現在はその水を利用することが多いという。
しかし、今回の調査はあくまで短期間にかつ試験的に行ったものであり、特に西側の地域に関しては、調査したビールも台地縁辺部より南に15km程度の範囲で確認できたものばかりである。
ビール・ディッディのような複合遺跡の性格を明らかにし、さらには台地上において、鉄器時代や青銅器時代に遡る遊牧民の遺跡を発見するには、さらなる調査と資料の蓄積が不可欠である。

台地縁辺部

 氾濫原からジャバル・ビシュリのある南方を望むと、おおよそ60〜80mの高さの絶壁が立ちはだかっているように見える。今回の調査では、この崖状になっている部分の頂部にイスラム時代の砦と思われる3つの遺跡を確認した(図3、4)

図3 台地縁辺部における遺跡分布図(シリア政府発行5万分の1地
形図を一部改変)

図4 ラッカ市以東における「ビール」及び氾濫原の遺跡分布図
(シリア政府発行5万分の1地形図を一部改変)
 
ナヒーラ遺跡(Nakhila)(写真13)
 
 ナヒーラ遺跡はラッカ市から南東約23kmに位置する。氾濫原の南端ある町アル=ラブト(Al-Rabt)を見下ろすように、台地縁辺部の頂上に立地している(写真14)。
典型的なイスラム期の砦遺跡である。南北方向に約100m、東西方向に約40mの規模で、北西方向に突出した凸形のプランを呈する。石膏の切り石を利用して基礎をつくり、その上部を焼きレンガで構築している。
北側隅には焼きレンガによる高さ4mほどの櫓状遺構(写真15)、南側に高さ3mほどの壁(写真16)が遺存している。
当該遺跡は少なくとも、南東側と北東側の2つに門を有していたと思われる。


写真13 ナヒーラ遺跡

写真14 ナヒーラ遺跡遠景
 

写真15 ナヒーラ遺跡(北側隅の櫓状遺構)

写真16 ナヒーラ遺跡(南側の壁)
 
カラート・サフィン遺跡(Qala , t Safin)(写真17)


写真17 カラート・サフィン遺跡
  カラート・サフィン遺跡はラッカ市から南東16kmに位置する。ジャバル・サフィンと呼ばれる台地縁辺部の頂上にあり、立地条件はナヒーラ遺跡と酷似している。東西方向に約60m、南北方向に約30mの不規則な長方形プランを呈する。

写真18 カラート・サフィン遺跡(南側に突出した部屋)

当該遺跡は南壁から突出した部屋を少なくとも2つ有する。これは南方にあるジャバル・ビシュリからの敵に備えた防御施設であった可能性がある(写真18)。
カラート・サフィン遺跡はナヒーラ遺跡とは異なり、建築材には石材を多用し、焼きレンガは使用されていない。イスラム期の土器が
採集されている。

ジャズラ遺跡(Jazla)

 ジャズラ遺跡はラッカ市から南東約55km、ガーネム・アル=アリという町から南東3kmに位置する。上述の2遺跡と同じく、台地縁辺部の頂上に位置している。周辺の南側から西側にかけてワディが入っているために、独立した丘陵状に見える部分に立地している。規模はカラート・サフィン遺跡よりも大きいが、目立った上部構造は残っていない。


図5 テル・シェイフ・アサド遺跡(シリア政府発
行5万分の1地形図を一部改変)
  ガーネム・アル=アリからジャバル・ビシュリへ向かう道路に沿って約2km南側に入り、その道路からはずれて東側に約1 k m のあたりに、マイヤー(Meyer)によって緊急発掘されたアブ・ハマド遺跡( Abu Hamad)が報告されている(Khalaf and Meyer 1993/1994)。マイヤーの報告によると、アブ・ハマド遺跡は青銅器時代の石室墓、シャフト墓、土壙墓などの広範囲に分布する埋葬施設の集合からなる遺跡である。上述したジャズラ遺跡を取り巻くように延びているワディの周辺には、アブ・ハマド遺跡に見られる埋葬施設に類似する竪穴や土壙が数多くあり、またその周辺からは青銅器時代のものと思われる土器片を多数確認した。こうした墓域は、アブ・ハマド遺跡やジャズラ遺跡周辺だけでなく、台地縁辺部とその周辺に数多く存在する可能性がある。今後、同様な立地における詳細な踏査を行う必要がある。


氾濫原

 バリーフ川以東におけるラッカ市周辺の氾濫原では、大規模テル型遺跡としては市街から東約1kmという近隣に位置するテル・ビーア(Tell Bi,a)遺跡が有名である。当該遺跡は、シュトロメンガー(Strommenger)らによって発掘調査がされており、古代都市トゥトゥル(Tuttul)に比定されている(Strommenger andKohlmeyer 1998)。しかし、この地域の氾濫原においては、これまで組織的な踏査がなされなかったためか、テル・ビーア以外の遺跡は報告されていなかった(Anastasio et al. 2004)。今回、我々の調査では、氾濫原において3つの中規模テル型遺跡を新たに確認した(図4、5)。

テル・シェイフ・アサド遺跡(Tell Sheikh Asad) (写真19)

 テル・シェイフ・アサド遺跡は、ラッカ市から南東に約7km、ラトラ(Ratla)村の北側に位置する。氾濫原の南端から約2km、ユーフラテス河が南に大きく蛇行する付近であるため、南岸までは約1kmである。当該遺跡は独立した微高地の上に立地し、南北に長軸をもつ楕円形を呈する。規模は南北に150m、東西に100mほどであり、周辺との比高差は15mほどある。 東西側が急斜面であるのにたいし、北側の斜面はなだらかであり尾根筋は北東方向を向いている。現況は荒地であり、耕作地や現代の墓域としては使用されていない。周辺は小麦畑に囲まれており、遺跡から南西方向には、畑の中に聖者の祠が2軒建っている。


写真19 テル・シェイフ・アサド遺跡
テテル・ハマディーン遺跡(Tell Hamadin)(写真20)

 テル・ハマディーン遺跡は、ラッカ市から南東に約43km、ジブリ(Al-ibly)という町の付近に位置する。 氾濫原の南端から約1km、ユーフラテス河南岸まで約4kmである。当該遺跡はヒトデ状に伸びた微高地の一端に、北東方向に連続してならぶ2つのテルから形成される。俯瞰すると瓢箪のような形状である。北側のテルは直径が150mほどであり、周辺との比高差
はおよそ7〜8mほどか。南側のテルはさらに小さく直径50mほどである。周辺は小麦畑に囲まれており、南側のテルの現況は荒地であるが、北側のテル頂上部の一部は現代の周辺集落の墓域として利用されている。総じて東側の斜面のほうが西側に比して急勾配である。現代において人為的な地形改変を受けた痕跡は、特に確認できなかった。遺跡からは青銅器時代の土器が採集されている。特にテル頂上部にドアソケットのようなを穿った建築材の一部や玄武岩製の石皿などを少数確認した。


写真20 テル・ハマディーン遺跡
テル・ガーネム・アル=アリ遺跡(Tell Ghanem al- Ali)(写真21)

 テル・ガーネム・アル=アリ遺跡はテル・ハマディーン遺跡の東約6km、ガーネム・アル=アリという町の北東約1.5kmに位置している。氾濫原の南端から約1km、ユーフラテス河南岸まで約2.5kmである。
独立した微高地上に立地し、東西約300m、南北約200mを測る楕円形をした単独のテルである。周辺は小麦畑に囲まれているが、南側は遺跡に隣接して現在建設中の施設がある。
現況はテル頂上部が周辺集落の墓域として利用されているが、頂上部の縁辺付近や斜面に関しては、目立った利用はされておらず、荒地である。
テル西側の斜面は裾の部分が人為的に削られ平坦にされている。また南西隅も、以前鉄筋コンクリートの建築物があったようで、人為的な土地の改変がみられる。

 テル頂上部に広がる墓域では、テル・ハマディーン遺跡でもみられた、玄武岩や石膏を利用したドアソケットのようなを穿った建築材や石皿などの石製品(写真22、23)が、数多く墓のために用いられている。
また、テル頂上平坦面の縁辺から斜面中腹にかけて石膏を利用した建築遺構の基礎部が、部分的に露出している。
これらは直線やL字、コの字形をしているようであるが、その帰属時期や詳細なプランについては現在のところ不明である。当該遺跡に関しては2007年5月に詳細な測量調査を行った。現在図面の整理作業を進めている最中である。その成果については稿を改めて報告したい。


おわりに

  今回の踏査において、台地平坦部における遺跡の分布の特徴は、現在も保存状態の良い教会等の建築遺構の残るラサーファ遺跡(Rasafa)を中心に、ラッカ市の市街地より西側にローマ時代以降の遺跡が集中している点である。それに対し、東側の地域では西側にみられるような遺跡は、確認することができなかった。また地図上において東側の地域に数多く示されているビールの地点からも、イスラム時代以前の痕跡は確認できなかった。



写真21 テル・ガーネム・アル=アリ遺跡

写真22 テル・ガーネム・アル=アリ遺跡(玄武岩製石製品)

写真23 テル・ガーネム・アル=アリ遺跡(石膏製ドアソケットか)
 ジャバル・ビシュリの西側と北側の外縁には、これまで遊牧民に対する防衛線が敷かれていた。ローマ時代にはStrata Diocletianaと呼ばれ、ローマ軍の防衛前線が敷かれた。また初期イスラム時代においては、ジャバル・ビシュリの南西麓にカサル・アル・ヘイル・シャルキ遺跡が、ウマイヤ王朝を砂漠の民から防衛する目的で設置された。我々の調査で、西側に遺跡が集中する一方で、東側のビールにおいて全く遺物が採集できなかったこと、台地縁辺部に3つの砦遺跡を確認したことは、こうした時代背景を裏付ける結果となった。

 一方、アブ・ハマド遺跡や、ジャズラ遺跡の周辺で確認することができた青銅器時代の埋葬施設を主体とする遺跡群は、その分布を含め詳細はなおも不明である。西側および南側にどこまでの広がりをみせるのかは、今後の調査のひとつの課題となるであろう。
また、ジャバル・ビシュリ内やその台地平坦部全域に数多く存在しているケルンとの関係も極めて興味深い。

 アブ・ハマド遺跡を発掘したマイヤーは出土遺物から、被葬者は都市民である可能性が高いと考えている(Meyer 1993/1994)。我々の調査で確認したテル・ガーネム・アル=アリ遺跡は、アブ・ハマド遺跡の被葬者が生活をしていた集落遺跡である可能性は高い。しかし、マイヤーはアブ・ハマド遺跡以外にも同様な埋葬施設からなる遺跡群の存在を指摘している。そしてそうした墓域となる遺跡に比して、集落遺跡が小規模すぎるのではないかとの疑問も投げかけている。マイヤーはそのような集落遺跡として具体的に遺跡を想定しているかを明確にしていないが、少なくともアブ・ハマド遺跡に対する集落遺跡には、テル・ガーネム・アル=アリ遺跡を念頭においていると思われる。我々の調査では、テル・ガーネム・アル=アリ遺跡以外にテル・ハマディーン遺跡とテル・シェイフ・アサド遺跡を確認しているが、依然として網羅的な調査を行えているとは言い難い状態である。埋葬施設を主体とする台地縁辺部にある遺跡群の分布と、集落遺跡と思われる氾濫原に位置するテル型遺跡の分布との相関関係は、埋葬された被葬者の性質を知るうえでも極めて興味深い。今後も、発掘作業と併行して詳細な遺跡踏査を継続していく必要があると考える。

*ジャズラ遺跡およびテル・シェイフ・アサド遺跡は、2007年5月に行った、テル・ガーネム・アル=アリ遺跡の測量調査を主目的とした第二次調査において、補足的に行われた踏査で確認した遺跡である。

参考文献
  • Anastatio, S., Lebeau, M. and Sauvage, M. 2004 Atlas of Preclassical Upper Mesopotamia, Subartu 13, Turnhout, Brepols.
  • Falb, C., Krasnik, K., Meyer, J-W., und Vila, E. 2005 Gräer des 3. Jahrtausends v. Chr. Im syrischen Euphrattal, 4. Der Friedhof von Abu Hamed, Saarwellingen, Saarlädische Druckerie & Verlag.
  • Al-Khalaf, M. and Meyer, J.-W. 1993/1994 Abu Hamad, Archiv Für Orientforschung 40/41, 196-200.
  • Strommenger, E. and K. Kohlmeyer, 1998 Tall Bi' , a-Tuttul-1, Die Altorientalischen Bestattungen, Saarbrücken, Saarbrücker Druckerei & Verlag.
  • 常木 晃 2006「考古学フィールドとしてのジャバル・ビシュリ」 『セム系部族社会の形成』Newsletter No.3,1〜8頁