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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.6(2007年3月号)より
第1次ビシュリ調査日誌
大沼克彦(国士舘大学イラク古代文化研究所)
総括班「総合的研究手法による西アジア考古学」研究代表者
2007年2月
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2007年3月
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2007年
2月12日(月)
 大沼、沼本の2名、羽田/関西空港発、ドーハ空港(カタール国))経由でダマスカスに到着。空港でSamer 氏が迎えてくれる。そのままスルタン・ホテルに直行し、夜に藤井、宮下両氏と合流。とりあえず、全員が同ホテルに宿泊する。翌13日の午前9時に考古博物館庁に出向くことで合意して、就寝。
2月13日(火)
 午前9時、考古博物館庁に出向。Bassam、Michel両氏と会い、以下の点で同意する。
1)藤井、宮下、沼本の3氏は14日にラッカに向かい、宿舎、車等の準備をする。
2)大沼は14日に考古博物館庁でMichel 氏とサーベイの契約文書を作成し、和訳を付けて日本にファックスし、追ってDHLで郵送する契約文書の原本に領域代表者の大沼の所属長である国士舘大学若林学長の署名と大学公印をもらい、早急にダマスカスに返送する。

 考古博物館庁での打ち合わせを終えたのち、ホテルをファラディース・タワー・ホテルに変更する。値段は1泊80ドル。午後の2時にSamer 氏と会い、14日の午前9時に車をファラディース・タワー・ホテルまで調達し、藤井、宮下、沼本の3氏をラッカまで送るように依頼する。午後8時に4名で夕食をとり、14日の行動の最終確認をおこなった。
2月14日(水)
 午前8時、大沼は考古博物館庁に出向し、Michel氏と会い契約文書の作成にとりかかる。先ず、Michel氏が提案したシリア側研究者の担当時代と遺物に関して同意したのち、日本側が担当する時代と遺物を提起した。

 その結果、「調査の基本方針は各調査の開始前にシリア隊(Michel al-Maqdissi)と日本隊(大沼克彦)の両者の合意で決定する。旧石器時代、新石器時代、金石併用時代の3時代の遺物は日本隊が担当し、青銅器時代(前期、中期、後期)の遺物はシリア隊が、鉄器時代の遺物はシリア隊と日本隊の両者が、そして、古典時代(ヘレニスティック、ローマ、ビザンツ)とイスラム時代の遺物はシリア隊が担当する」点で同意した。さらに、この契約は初年度の調査が終了した時点で再考することでも同意した。

  午前11時に契約文書の和訳を終了し、訳文を国士舘大学の岡田氏にファックスし、「DHLで送られる契約文書の原本に若林学長の署名と大学公印をもらって、26日にシリアに来る際に持参してほしい」旨、依頼した。

 藤井、宮下、沼本の3氏はSamer 氏が調達した車で午前9時にファラディース・タワー・ホテルを出発し、ラッカへ向かう(午後5時に到着)。
2月15日(木)
  昨日岡田氏に送ったファックスが届いていなかったことを確認し、午前6時半にファラディース・タワー・ホテルから再送した。しばらくしてからイラク研とオリ博に電話をかけ、届いたことを確認した。

  岡田氏にも電話をかけ、「若林学長と面談して、署名と大学公印をもらう」ように依頼した。若林学長には「岡田氏と面談した際に署名と大学公印をいただきたい」と依頼をして、快諾を得た。

  午前7時半、タクシーでファラディース・タワー・ホテルを出発。ラッカに向かう。

  午後1時にラッカ着。先ずラッカ博物館を訪れ、藤井、宮下、沼本の3氏が宿泊するホテルの名前(ラザワルド・ホテル)を聞き、向かう。ホテルで休息していると、ビシュリ台地のサーベイを終了した3氏が4時頃にホテルに帰着。8時にホテルのレストランで落ち合うことにした。

  8時にレストランで夕食をとる。10時頃、ラッカ博物館のNawras 氏ら3名がホテルを来訪し、歓談して11時頃に別れた。この間、「今回はホテル住まいでよいのでは?ユーフラテス河沿いに大きな遺跡があるのはもちろんだが、ビシュリ山に発するワジの合流地点がねらい目ではないか?」などを話し合った。大沼の部屋で衛星地図を見てから、翌朝の8時に作業開始ということで同意して、就寝。
2月16日(金)
 午前8時20分、ラッカ博物館のNawras 氏がホテルに到着。全員でビシュリ山地へ向かう。先ず、ビシュリ山から流下するワディの合流地点にあるガーナムアリ町を南に曲がり、ワディ・アルウバイドに沿って進むと、古井戸のビール・アシュワンに到着した(写真1、2)。
写真1 ビール・アシュワン 写真2 ビール・アシュワン近景
  ビール・アシュワンを見終わったあと、タール・スバイに行き、ケルンを確認した(写真3、4)。
写真3 タール・スバイのケルン 写真4 タール・スバイのケルン近景
 タール・スバイ近くの山裾の奥まったところにビール・スバイと呼ばれる古井戸群が存在する。ここにはムステリアンやPPNBの石器が大量に分布している。大量の接合資料が存在すると思わせるほど多くの石器が原位置を保って残っている。エンド・スクレイパー、彫器といった日常生活石器も大量にあり、ここは、石器製作場であっただけではなく、居住遺跡でもあったと思われる(写真5、6)。
写真5 ビール・スバイ(1)(沼本氏撮影) 写真6 ビール・スバイ(2)(沼本氏撮影)

 ビール・スバイで日が暮れてきたので、往路と反対の西回りで帰ることにした。ユーフラテス河沿いにあるマンスーラ町にはサッディエンという一対遺跡がある。青銅器時代中期の遺跡とのことだが、かって国士舘大学がイラク・ハディーサ地域で調査したオーシーア遺跡の直近でみた、上半部分を盛り土でつくったジグラット状の墓によく似ている。2つの塔状遺構と住居が組み合わさった遺跡である(写真7)。

 本日の旅行で知ったことは、ユーフラテス河直近の段丘からビシュリ山に向かって入って間もない土漠状台地の辺縁部分には小規模なテルが少数散在するということである。

写真7 サッディエン遺跡(沼本氏撮影)
 夜の7時にホテルに帰着し、8時に食事をとる。翌17日にダマスカスへ向かう藤井、宮下両氏と、今回の現地参集が短期間ながら大成功であったことを確認する。同時に、今後の調査の成功を願う。
2月17日(土)
 午前9時、藤井、宮下両氏は帰国のためダマスカスに向かう。11時にインターネット・カフェでラン・ケーブルによるメールを試み、国士舘大学情報科学センターのウェブ・メールを用いてメールが可能なことを確認する。午後は休息。

 夜10時、Nawras 氏がホテルに来訪。深夜バスでダマスカスに行き、翌18日に全国博物館員会議に出席するとのこと。同氏とお茶を飲み、11時に別れる。12時に就寝。
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2月18日(日)
 午前10時半、ラッカ博物館に出向き、館長のAnas氏に合う。氏は合同調査におけるシリア側の現場主任である。若く、好感の持てる研究者である。同氏に本プロジェクトの趣旨、メンバー、そして、これまで調査開始が遅れてきた経緯などを説明し、協力を依頼する。本プロジェクトの意義を十分に理解した同氏は協力を約束した。

 午前11時、宿舎探しのため、同氏の案内で沼本氏とラッカ市内の2軒のアパートを実見する。値段、内容から両者とも不適格と判断。午後1 時、沼本、Ayham 両氏と昼食をとり、2時にホテルに帰る。

 夕方の6時、Anas 氏がホテルを来訪。旧市街を案内してくれる。アッバス期のモスクは規模は小さいが、質素な美しさをたたえている。現在復元中とのことである。ウマイヤ期のカッスル・ベネーヤは病院だったらしいとのことである。バグダッド門はバグダッドの方向に向いている。

  旧市街を見物したあと、レストランでお茶を飲む。Anas 氏はスペインで学んだだけに、趣味としてのギターの腕はプロ並みである。専門分野を聞くと、アッカド時代からアッシリア時代とのことである。我々のプロジェクトの趣旨、すなわち、アモリ人がビシュリ地域で発展してバビロン、アッシリア王国を形成した時期以前の都市的村落の形成の経緯に興味を持っていること、それ故に、河沿い集落と遊牧民との関係を明かしたいことを説明すると、非常に興味を示した。氏の興味はアッシリア王国と遊牧民の関係であるとのことである。このことは、我々の趣旨と一致する。

  ハッサケ市近郊のタバン遺跡で400点以上の粘土板文書が出たことを話すと非常に興味を示したので、沼本氏を呼び出して歓談する。

 ホテルに帰り、沼本氏と以下のことを話し合った。
1)Anas 氏はユーフラテス河沿いの遺跡を発掘したいようである。
2)したがって、シリア側の現場主任の同氏に対して、ユーフラテス河沿いの本格的遺跡の発掘を奨励する。
3)日本隊は、ユーフラテス河から若干ビシュリ台地に入った地域の小規模遺跡を発掘する。これらの遺跡は、アッシリア、バビロン王国が形成される以前、アッカド期ぐらいまでのものが望ましい。
2月19日(月)
 午前11時にコンピュータに接続するプリンターを買いに市内に出る。手頃なものを100ドルで購入した。

 ダマスカスにいる宮下氏に連絡を取る。常木、長谷川の両氏が夜にラッカ到着とのこと。宮下氏はMichel 氏から「調査の許可が明日の午前中に出るので、契約文書を日本に持参して、署名をもらい、公印を押してもらってシリアに来る日本人研究者に持ってきてもらうように」と言われたとのこと。大幅に遅れている現地調査の許可も今度は間違いなく出そうだ。

 午後の6時にNawras 氏と会う。氏は、ダマスカスでBassam、Michel 両氏と会った際に、「日本隊との友好関係を深めるために協力を惜しまないように」と言われたとのことである。明日の午前中にMichel 氏から正式許可のファックスが来るとのことなので、午後には正式に調査を開始できるだろう。
2月20日(火)
 昼の12時半に博物館に出向くが、ダマスカスからの連絡はいまだ届いていなかった。午後3時、Nawras氏を伴って、16日に訪れたビール・スバイに向かう。 場所探しに手間取り、到着したのは日没直前だった。1時間ほどで引き返し、8時にホテル着。途中で採集遺物用のビニール袋を購入する。

 ホテルには、西秋班の研究協力者・木内氏が到着していた。共に夕食をとる。明日は、8時半に博物館に行き、9時から遺跡分布調査を開始することにした。 分布調査は、二手に分かれて効率的におこなうことにした。大沼、沼本、木内の班、常木、長谷川の班の2つである。12時過ぎ、就寝。
2月21日(水)
 8時半に博物館に出向き、Nawras 氏に本日の行動計画を説明する。9時に正式サーベイ開始の記念撮影(写真8)を終えて出発する。車は2台。1台は常木氏が運転し、長谷川氏とAyham 氏が同乗する。もう1台は運転手つきで博物館から調達してもらい、大沼と沼本にMahmmod 氏が同乗する。

 先ず、ラッカ市の西方のマンスール町から南下してビシュリ山に向かう。ルサーファ町の2キロメートルほど手前に遺跡があったので、車を降りて遺物を採集する。ビザンツの土器である。ルサーファ町には巨大な砦がある。ビザンツ時代の要塞とのことで、現在、シリア考古博物館庁が優先的に修復と復元につとめている(写真9、10)。
広大な砦の内部にはイスラムの礼拝場が建てられたとのことである。

写真8 正式サーベイ開始の記念撮影
(一番左には関係のない人物がちゃっかりと写っている)

写真9 ビザンツ時代のルサーファ要塞

写真10 ルサーファ要塞内部
 次に、ハルバット・ハル−という遺跡で土器を採集する。時代はビザンツ。マンスール町に引き返し、そこからラッカに向かう途中で再度ビシュリ山方面に南下して遺跡を探索する。ユーフラテス河の低位段丘かとも思われるバルーダ町という地点に低いテル状の地形があったので、遺物を採集する。特徴のない石器がかなりの量落ちていた。このテル状の盛り上がりはバリーア・テル・ハンマムと言うらしい。

 そこから南方に明らかな遺跡テル(シリアでは自然丘もテルという。イラクでは自然丘をメサということもある)が見えたので、そこに行って遺物を採集する。
ベンチ・マーク(GCHS C113)のあるこの遺跡は青銅器時代のものかと期待したが、ビザンツ時代の遺跡だった(写真11)。

 サーベイを終え、4時半にホテルに帰る。


写真11 GCHS C113遺跡
 8時にブスタン・レストランで夕食をとる。下痢がひどかったので、さっぱりしたものと思って注文したメニューも相変わらず油っこいものだった。12時、就寝。
2月22日(木)
  8時半に博物館に出向き、Ayham 氏に本日の行動計画を説明する。昨日の続きのサーベイ、すなわち、バルーダ町の東側のビシュリ台地の縁をラッカに向かって探索することを説明する。昨日と同様、車は2台。
1台は常木氏の運転、長谷川氏とAyham 氏が同乗する。もう1台の博物館の車は運転手のAbd 氏つきで、大沼、沼本、木内とMahmmod 氏が同乗する。

 先ず、昨日訪れたGCHS C113遺跡の2キロ南にあるエル・ホール遺跡(写真12)で土器を採集する。ビザンツ・ローマ時代の遺跡である。ここで一休みしていると、アレッポからの来客があり、常木班はラッカに戻る。

写真12 エル・ホール遺跡
 いったん幹線道路に戻り、やや東に向かったところでまた南に折れてビール・クレディに行き、土器を採集する。ローマ時代の井戸を中心とした遺構である(写真13)。井戸は深さ70mだという。ここで、ラッカで買ったリジャージャの丸焼きで昼食をとる。なかなかの味である。
写真13 ビール・クレディ(木内氏撮影)
つぎに探索したカブ・アル・サギールも井戸を中心にした遺構である(写真14)。土器からみて、この遺構もローマ時代のものらしい。井戸の深さは170mだという。そこまで深くはないだろうが、大きな石を落とすと、底部に届くまで7秒ほどかかった。70m以上はあるかと思われる(子供の頃、高さ100mほどの日光の華厳の滝の水塊の落ちるのが確か9秒で、1秒で10mほど落ちたという遠い、曖昧な記憶から)。

写真14 カブ・アル・サギール(木内氏撮影)

写真15 テル・ムヘール
 途中で休息した仮家屋(雨期に羊に草を与えるため一時的に滞在する家とのこと)の家長が「大きなテルがある」というので、テル・ムへールに向かう。このテルは基礎が自然丘で、その上に墓や小規模遺構が散在する。ほとんどの遺構はイスラム以後のもののようだが、周囲が平坦なので非常に目立つテルである(写真15)。イスラム以前にも何らかの目的で利用された可能性がある。サウンディングをおこなうには格好な場所かもしれない。

 4時にホテルに帰り、8時にホテルで夕食をとる。市内のレストランでは美味しい料理が望めず、ホテルで我慢することにした。翌23日は金曜日なので休日にして、内作業をすることにした。長谷川氏は地図づくり、木内氏は採集遺物の洗いをする予定である。
2月23日(金)
 今日は休日なので各自自由行動だが、長谷川氏は地図作成、木内氏は採集遺物の洗いに取り組んだ。昼過ぎ、ラッカ市内にあるビア遺跡を訪れる。この遺跡は初期王朝期の末から青銅器時代前期にかけたユーフラテス河流域拠点都市だったといわれている(写真16〜18)。
写真16 ビア遺跡遠景

写真17 ビア遺跡

写真18 ビア遺跡:中心建物の発掘跡
 ビア遺跡が西方の諸王朝に対峙していたのか、あるいはまた、ビシュリ方面のアモリ人に対する防御壁になっていたのか、非常に興味深いところである。

 油っこい食事に飽きてきたので、昼食は、通りで買ったインスタント・ラーメンにした。湾岸諸国製だが、なかなかの味である。午後4時にインターネット・カフェに行ってメールをうつが、混んでいたせいか、なかなか送信できなかった。

  夕食もラーメン。常木、長谷川、木内氏が参集した。翌24日は朝8時半に博物館に行き、常木班はビール(井戸)踏査、大沼班は昨日の続きの踏査をおこなう。
11時に就寝。
2月24日(土)
 8時半に博物館着、9時に調査を開始。2班に分かれ、大沼班は運転手のAbd 氏と沼本、木内氏の4名でラッカの東方ビシュリ方向部分を、常木班はMahmmod、長谷川氏の3名でラッカの東方ビシュリ方面のビールを調査する。

 アドラハ・ハウージ・シャンナムという町から南におれ、一昨日の続きの調査をおこなった。複雑に入り組んだ河岸段丘面に遺跡らしい2つの丘をみて近づいたが自然丘だった。その直後も同じ見間違いをした。
この種の入り組んだ地形で自然丘と遺跡丘を識別することの困難さを実感した(写真19、20)。

写真19 アドラハ・ハウージ・シャンナム町近くの自然丘(1)

写真20 アドラハ・ハウージ・シャンナム町近くの自然丘(2)
  このあと常木班と分かれて、一昨日訪れたテル・ムへールの方向に向かう。途中でうっかりと軍施設に迷い込んで、15分ほど取り調べられたのち、テル・ムへールの1.5kmほど東にあるテルで昼食をとる。ここにはイスラムの土器が少量散布していた。昼食の後、ルサーファ町へ向けて調査を続行した。その途中で大きな‘くぼみ洞穴’にたどり着く。恐ろしいほど急角度の深い自然洞穴で、ワディの水が四方から流れ落ちて溜まるような地形である(写真21、22)。

写真21 突然現れた‘くぼみ洞穴’

写真22 ‘くぼみ洞穴’近景
 本日の調査により、ユーフラテス河段丘上のビシュリ台地には、ローマ、イスラム時代以外の遺跡がほとんど見あたらないことがわかった。したがって、本プロジェクトのテーマである「アモリ人が都市・村落を形成した経緯」を明かし得る遺跡は、ユーフラテス河の氾濫原に残っていると思われる。

  5時にホテルに帰り、6時にLubna 氏を出迎えた。彼女は本郷班の研究協力者で、動物考古学の専門である。ホテルで全員で夕食をとり、翌25日の予定を確認して解散する。

  明日は、午前中に沼本氏がハッサケに行き、そのまま帰国する予定である。大沼班は段丘直上のビシュリ台地の調査を終了し、常木班はビールの調査を終了する予定である。12時、就寝。
2月25日(日)
 今日も2班に分かれて調査をおこなった。大沼班は運転手のAbd 氏と木内氏で昨日同様、ラッカの東方ビシュリ方向部分を調査した。先ず9時半に出発して、ガーナムアリ町の道路から北へ800mほど入ったユーフラテス河氾濫原にあるハマディーン遺跡を調査した。常木班はAyham、長谷川氏の3名でラッカの東方ビシュリ方面のビールを調査した。

 沼本氏は午前11時にハッサケに向かった。

  ハマディーン遺跡は小規模な遺跡だが、青銅器時代の土器片とドア・ソケットなどが散乱している(写真23、24)。氾濫原にある遺跡なので、日本隊による発掘には許可がおりない可能性が高いが、本調査はシリアとの合同調査なので申請を試みる価値は十分にある。

写真23 ハマディーン遺跡

写真24 ハマディーン遺跡のドア・ソケット
 ガーナムアリ町から南に折れ、ビシュリ山の方向へ3kmほど行った地点で低い遺跡状のテルを見たので東に曲がり、800mほどの地点(A遺跡)と600mほどの地点(B遺跡、C遺跡)に行く(写真25〜27)。

 これらの遺跡で、ハマディーン遺跡のものとほぼ同様な土器片を採集した。木内氏によれば、青銅器時代前期の土器もあるようだ。これらの遺跡の盗掘ははなはだしく(帰国後に分かったことだが、盗掘とドイツ人による発掘調査によるものだった)、発掘を申請する格好な理由になるかもしれない。

 南東方向500mほどの地点(D遺跡)でも土器の採集を試みたが、土器片は少なかった。A、B、C、D遺跡で土器を採集してから、さらに南下して調査を続けたが、遺跡を見つけることは出来なかった。5時にホテルへ帰着した。6時頃、イドリブからShakir 氏が来着した。シリア隊の2人目の現場主任だという。7 時半にホテルで夕食をとる。A n a s 、Nawras、Ayham、Shakir、Mahmmod、そして、運転手のAbd 氏らシリア側関係者のすべてが参集してにぎやかだったが、Anas 氏が明後日から2週間、スペインに出張するとのことで、送別会の雰囲気である。出張の送別会にしては重々しい雰囲気で、あたかも、職場変更の送別会のようにもみえた。

 夕食の後、Ayham、Shakir 両氏を自室に招き、本プロジェクトの趣旨と、この調査があくまでも合同調査である事実を説明し、シリア隊主体による河沿い遺跡の発掘調査、日本隊によるハマディーン遺跡とA、B、C遺跡の発掘調査、および、ビシュリ台地のサーベイの実現へ向けた協力を依頼した。両氏とも可能な限りの協力を約束した。12時、就寝。

写真25 A遺跡

写真26 盗掘のはなはだしいA遺跡

写真27 B遺跡
2月26日(月)
 本日は内作業。常木氏は朝11時にケルクに戻る。長谷川、木内氏は博物館で展示土器を観察し、青銅器時代前期の土器の特徴を研究しようとしたが、精製土器しか展示されていないので、期待どおりの観察が出来なかった。

 昼食の後、長谷川、木内氏はShakir 氏から古典時代(へレニスティック、ローマ、ビザンツ)の土器の特徴を学ぶ。

 夕食の後、プリンターを調整するために販売店に行く。いったんホテルに帰り、インターネット・カフェで大沼研究室に最新の情報を送付した。12時、就寝。
2月27日(火)
 午前9時に出発し、一昨日に訪れたハマディーン遺跡を訪れ、つぎに、ガーナムアリ町から南にビシュリ方向へ3kmほど入ったところにあるA、B両遺跡を再度訪れた。Shakir 氏によると、ハマディーン遺跡は部屋付き壁で円形状に囲まれているとのことである(写真28、29)。

  A、B両遺跡を訪れたのちいったん幹線道路に出て、東に曲がり、ガーナムアリ遺跡を訪れた。この遺跡はハマディーン遺跡とほぼ同規模で、木内氏によると青銅器時代前期にまでさかのぼる可能性が高い。再びビシュリ台地に引き返して昼食をとった後、西に向けて調査を続行した。




写真28 ハマディーン遺跡の遺構(1)

写真29 ハマディーン遺跡の遺構(2)
 アドラハ・ハウージ・シャンナム町に至る間に実感したのは、この地域は起伏が著しく、大きなワディが存在していて絶景だが、遺跡らしいものはほとんどないということである(写真30、31)。

写真30 遺跡がほとんど存在しないビシュリ台地北縁部

写真31
アドラハ・ハウージ・シャンナム町近く、ビシュリ台地北縁部の景観
 本日で調査区域の北半部分の調査を終了した。一連の調査を通して、ユーフラテス河段丘上のビシュリ台地は、東側には青銅器時代の小規模遺跡があるものの、西側には、ローマ、ビザンツ、イスラム時代の遺跡が多いという、場所による遺跡の時代差があることを確認した。また、調査区域の南半部分には遺跡が少ないこともほぼ確実である。

  ホテルへの帰路、ガーナムアリ遺跡とラッカの間のユーフラテス河氾濫原にハマディーン遺跡と同様規模の遺跡が少なくとも2つ、ほぼ等間隔に存在することを確認した。4時にホテル着。7時半に夕食をとる。

  9時頃、Nawras、Ayham、Mahmmod 氏が来訪。 3階のロビーで談笑した。12時に就寝。
2月28日(水)
 今日はレポートづくりに終始した。夜の8時に岡田、依田両氏がホテルに到着した。岡田氏はシリア国内をまわる予定。明日は、午前中に大沼が岡田、依田両氏をハマディーン、ガーナムアリ、A、B、C遺跡に案内する。就寝、12時。
3月1日(木)
 今日もレポートづくり。岡田、依田の両氏は9時にハマディーン、ガーナムアリ、A、B、C遺跡に向かった。長谷川、依田の両氏は3時のバスでダマスカスへ向かった。

 午後7時、運転手のAbd 氏に給料を支払う。7時半から夕食をとり、関係者のほとんどが集い、打ち上げ的な集まりになった。12時、就寝。
3月3日(土)
 レポート作成を終了。午後6時にタクシーでダマスカスに向かった。12時にダマスカスのスルタン・ホテルに到着。
3月5日(月)
 午前中に考古博物館庁に出向き、レポートを提出した。
3月7日(水)
 午前中に考古博物館庁でBassam、Michel 両氏に会い、別れの挨拶を済ます。午後6時、スルタン・ホテルで松本、岡田氏と合流。夕食前に、マルジェ広場のハヤム・ホテルにある地図店で5万分の1の地図(ラッカ、マンスーラ、ルサーファ、ガーナムアリに囲まれた地域の4区画分)を購入した。松本氏は明日からデレゾールとラッカの間のユーフラテス河南岸と北岸を探査して往復する。スルタン・ホテルの受付に、10日に到着予定の星野先生に伝言を残す。
3月8日(木)
 午前、Nawras、Ayham の両氏がバスで到着。岡田氏は帰国した。松本氏は探査へ出発。夕食は、岡田班の研究分担者・新井氏がすすめてくれたアリババ・レストランで、Nawras、Ayham、木内氏ととることにした。