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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.4(2006年12月号)より
北アジアの旧石器文化-ヤクーツクの資料調査-
佐藤宏之(東京大学大学院人文社会系研究科)
計画研究「西アジア旧石器時代の行動進化と定住化プロセスの関係」研究代表者
 西アジアにおける新石器化は、動植物の栽培・馴化と定住戦略に特徴を有するが、その歴史的位相を相対化するためには、旧大陸各地の定住化、すなわち後期旧石器段階から新石器段階への移行プロセスとの比較考古学的検討が欠かせない。この比較調査の一貫として、2006年2月10日から20日まで、ロシア連邦サハ共和国の首都ヤクーツク市にあるサハ国立大学とサハ科学アカデミーを訪問した。

サハ国立大学の資料

 サハ国立大学では、考古学研究所・人類学博物館と考古学部を中心に訪問した。戸外はー40℃であるが、そのため建物は大変立派に作られており、4階分をしめる博物館は、1階が旧石器・新石器時代、2階が新石器〜青銅器時代、3階が民族誌〜開拓期、4階がマンモス博物館となっている。愛知万博のユカギール・マンモスは、この博物館から提供された。学長が考古学者のアレクセーエフ氏だったので、調査には十分な便宜をいただいた。
 主要な調査資料は、ウスチ・オレクマ遺跡(前期旧石器時代)、ティミルディフ・ハヤ遺跡(中期旧石器)、ジュクタイ文化(後期旧石器)、スウムナギン・ベリカチ・スイヤラフ・ウイミヤタフ等の新石器〜青銅器時代の諸文化に属する遺跡出土資料等である。ウスチ・オレクマは、摩耗が激しく観察が困難であったが、ティミルディフ・ハヤは、ガラス質珪岩を石材としており、ルヴァロワ技法はなく、斜軸剥片製の削器が卓越する。ガラ・イギチェイ遺跡群等のバイカル周辺の遺跡に様相が近い。レナ川を経由したルートが考えられよう。


科学アカデミーの資料

 科学アカデミーでは、ヤクーツク旧石器研究の泰斗として我が国でも古くから知られているY.モチャーノフ教授の歓迎を受けた。ここでも、展示資料だけではなく、収蔵資料まで全てを観察することができた。

 主要な調査資料は、ディリング・ユリャフ遺跡(前期旧石器<250〜160万年前>*)、アラライカ遺跡(前期旧石器<160〜15万年前>)、マンハラマ遺跡(中期旧石器<15〜3.5万年前>)、ウスチ・チルクヨ遺跡(中期/後期移行期<5〜3.5万年前>)、ジュクタイ文化(後期旧石器<3.5〜1.05万年前>)の諸遺跡(ジュクタイ洞窟、エヂャンチ、ウスチ・ミリ、ウスチ・ジュクタイ等)、極北のベレレフ遺跡(<1.2万年前>)及び新石器〜青銅器時代の諸遺跡出土資料等である。

図1 ディリング・ユリャフ遺跡出土状態復元模型
 ディリング・ユリャフ遺跡は、アフリカ最古の遺跡とほぼ同年代の遺跡と主張されたことで有名な遺跡であるが、年代に関しては支持者がほとんどいない。サハ国立大学の研究者は、少なくとも40万年前以降の年代と考えている。出土資料は膨大で確実に石器である。片面加工の礫器を主体としており、わずかに尖頭礫器を含むが、チョッピング・トゥールやハンドアックスは認めることができなかった。従って、出土石器から型式学的に年代を推定することはできないが、層位的には前期旧石器時代としても矛盾はないだろう(図1)。ちなみに、現在アルタイ山地最古の遺跡と考えられているカラマ遺跡(推定40万年前頃)出土石器群の主体も片面加工の礫器類である。ディリング・ユリャフに後続すると考えられているアラライカ遺跡出土資料も片面加工の礫器類であるが、加工はより丁寧になり、全周加工の高背削器が出現している。韓国の中期旧石器時代には、よく似た蹄形の高背削器が特徴的に伴うが、何らかの関係が考えられるかもしれない。

  中期旧石器時代のキジル文化に属するモンハラマ遺跡出土資料は、驚くべきことに尖頭部をもつ両面体を主体としているらしい。平面形は左右非対称で断面も非対称であり、調整加工が階段状剥離によっていることから、中期旧石器的であることは確かであろう。近年東ヨーロッパのツェレティアンやロシア平原、カフカス等で中期旧石器時代に属する両面体石器群が卓越する石器群の存在が知られつつあり、アルタイ山地のアヌイ3遺跡やウスチ・カンスカヤ遺跡等でも少量伴うことが注意されているが、この系統を引いているのであろうか。少なくとも、東アジアの中期旧石器時代である調整石核系石器群には確認できない特徴である。

図2 ジュクタイ洞窟遺跡調査状況復元模型
 中期/後期旧石器時代の移行段階に関する研究は、近年活発に論争が行われている。西アジアでは、47,000年前のアフマリアンから後期旧石器時代と考えているが、アルタイでは、やや遅れて登場するカラボム石器群をもって後期旧石器の開始とする見解が有力である。現在のところ、このカラボム石器群は、モンゴル高原の東端まで分布している(従って列島の石刃石器群の起源とは直接関係しない)が、従来北方での事例は知られていなかった。大型石刃を主とするウスチ・チルクヨ石器群は、カラボム石器群の北方への拡散に関与する可能性が高い。
 日本列島及び極東・東アジアの細石刃石器群との関係で、ジュクタイ石器群は従来から関心を集めてきた。細石刃核は削片系および非削片系の技術によって製作されており、多様な細石刃核を共伴するという特徴は、大陸のそれと共通する。ジュクタイ洞窟遺跡(図2)は原産地遺跡であるため、大量の資料が得られているが、他の遺跡は消費地遺跡であるためか、零細である。モチャーノフは、3.5万年前と推定した年代観から、ジュクタイ文化が東北アジア・東アジア・北アメリカにおよぶ細石刃文化の起源であると主張してきたが、反対意見は根強く解決は見ていない。
 このジュクタイ文化に属するとされるベレレフ遺跡は、北極海に注ぐインディギルガ川河口部近くに位置する。この付近は、マンモス骨の集結した堆積があることで著名であるが、ベレレフは、これらのマンモス骨を利用するために遺跡が形成されたと理解されている。

文化圏・ヤクーツク・新大陸

 旧大陸における前期旧石器文化の展開は、H. モヴィウスJr.による東西二大文化圏説(Movius1949)の提案以来、その評価をめぐって議論が戦わされてきた。この東西文化圏の境界は、モヴィウス・ラインとして知られており、当初の提案ではインド・バキスタン・イランから東ヨーロッパ以西が西側のハンドアックス文化圏とされたが、それは旧ソ連の様相が不明であったためである。現在では、ロシア平原・中央アジア・南ロシア等の調査事例が知られたため、このラインは、ほぼ現在の中国領に沿って伸びていることが判明している。そしてこのラインは、中期旧石器時代にも存在していた。その東端は、現在モンゴル高原と内蒙古の境付近にあると考えられるが、それより以北の様相が知られていなかった(佐藤2004, 2005)。

 今回の資料調査によって、少なくともサハ共和国南部にはこれまで我が国では知られていなかった前期・中期旧石器文化が存在し、後期旧石器時代にはヤクーツク全体に及んでいることが判明した。ヤクーツクの前期旧石器文化は非アシュール系の礫器文化であり、中期旧石器文化も非ムステリアン系であるため、モンゴル以北のモヴィウス・ラインは、南ロシアとヤクーツクの間で反転して西進している可能性が高くなった。つまり、西側文化圏は、モンゴル高原に突出して分布していることになる。

 ヤクーツク(サハ)は、北シベリアにあり、過去及び現在も酷寒の地としてよく知られている。従って、紹介してきた各時代の遺跡の存在によって、直ちに人類の連続的な居住を意味しているとは限らない。一般にシベリアでは、温暖期に人類が居住していても、寒冷期になると南下して寒さを回避していた可能性が考古学的によく指摘されている。例えば、ヤクーツクの新石器文化は、オクラドニコフによって遊動型新石器時代と定義されており、テントが主たる居住施設であったと考えられている。この地では、発達した土器文化も、定住性の指標とはならない。実は竪穴住居は、東アジア周辺の特殊現象なのかもしれない。
 これまでの人類学を中心とした漠然とした理解では、酷寒の地への人類の適応は、ネアンデルタール人(従ってムステリアン)をして初めて可能であったとされ、ヤクーツク及びその東側に広がるチュコトカ半島までの地域は、後期旧石器時代の現代人によって初めて開発された地域であり、だからこそ新大陸への人類の移住は、現代人出現後と考えられてきた。新大陸の最初のアメリカ人の移住ルートに関するシナリオは、大勢は依然として11,500年前のクローヴィス文化とする説がまだ有力であるが、チリのモンテ・ベルデ遺跡(12,500年前)等の先クローヴィス人による海洋適応移住説も力を得つつある。こうした研究を視野に納めた場合、ヤクーツク南部の前期・中期旧石器文化の存在は、今後十分検討する価値があろう。

ヤクーツクの旧石器文化

図3 Dereviankoによる第2次出アフリカ   
 矢印は後期アシュール集団の推定拡散ルート。暗部は非アシュール地帯。
 最近A.P. デレビアンコは、旧大陸への人類移動に関する壮大な学説を発表した(Derevianko2005)。その説によれば、第1次出アフリカの年代は、従来同様200?180万年前と想定しているが、第2次出アフリカに関しては、全く異なる見解となっている。45?35万年前になると、後期アシュール文化の人々(原人)がアフリカからアジアに拡散するが、東アジアにはその波は到達していない(図3)。その後各地で現代人への進化が起こると説いている。現在前期アシュール文化と後期アシュール文化が全く異なる文化であるとする考えが有力になりつつあることから、デレビアンコ説が正しいとすれば、モヴィウス・ライン以東の東アジア型ハンドアックス石器群(佐藤2003)は、前期アシュール文化の拡散以降に後期アシュール文化が到達しなかったことを意味し、この移住拡散パターンがモヴィウス・ラインを形成した原因となる。このシナリオは、現状の資料から見て整合的であるが、後者の多地域進化説は、現在の主要な遺伝・形質人類学の学説である現代人のアフリカ単一起源説の否定であるため、判断は難しい。デレビアンコ説に従えば、ヤクーツクには後期アシュール文化が到達していないことになる。

 ディリング・ユリャフ、ジュクタイ、ベレレフ等の資料は我が国でも紹介されているが、他の旧石器時代資料については、ほとんど知られていないと思われる。ロシア国内の文献でも見た記憶がないので、今回紹介することにした。



 *この年代値は、モチャーノフ氏の年代観による。以下同じ。

参考文献

佐藤宏之 2003 「中期旧石器時代研究の地平」『博望』4号、9-22頁
佐藤宏之 2004 「ハラム・モヴィウスと東洋的停滞」『法政史学』61号、17-31頁
Derevianko, A. P. 2005 The earliest human migrations in Eurasia and origin of the upper Paleolithic.
   The Middle to Upper Paleolithic Transition in Eurasia, pp. 5-19, Institute of Archaeology and Ethnography Press: Novosibirsk.
Sato, H. 2005 A perspective on the middle Paleolithic study of the east Asia. Major Issues of the Eurasian Paleolithic, pp. 161-171, Institute of Archaeology and Ethnography Press:Novosibirsk.
Movius, Jr. H. 1949 The lower palaeolithic cultures of southern and eastern Asia. Transaction of the American Philosophical Society, n.s. 38: 329-420.