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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.4 (2006年12月号)より
シリア砂漠北端、パルミラ盆地の先史遺跡
西秋良宏(東京大学総合研究博物館)
計画研究「西アジア乾燥地帯への食料生産経済波及プロセスと集団形成」研究代表者
 本特定領域研究があつかうビシュリ山系は、シリア砂漠の北端に位置する。この山そのものの踏査はいまだ実現していないが、日本にはすでに近隣で先史学的調査をおこなった実績がある。東京大学洪積世人類遺跡調査団の仕事である(歴代団長:鈴木尚、埴原和郎、赤澤威)。1967年から1984年まで、ビシュリ山系の南西、パルミラ盆地を拠点として旧石器遺跡を中心とした総合調査がおこなわれた。筆者は1984年にその調査に参加した機縁もあって、現在、その成果の見直しにとりくんでいる。
調査の主眼は旧石器時代遺跡であるドゥアラ第一洞窟の発掘にあったが、周辺の踏査ならびに古環境調査も平行して実施され、数多くの新遺跡を登録することに成功している。最も多くの遺跡が発見されたのは1967年、最初のシーズンである。発掘地の選定が目的であったから、ビシュリ山系西部からそのさらに西に続くパルミラ山麓南部まで広く遺跡踏査がおこなわれた。その結果、以後の調査地として選ばれたのがパルミラ盆地一帯というわけである(写真1、2)。


写真1 パルミラ周辺のシリア砂漠

写真2 採集された旧石器の一例(前期旧石器)
   
 一方、ビシュリ山系南西縁にあたるタイベ地区は、当時の副団長であった小堀巌が後に農業地理調査のフィールドとした。また、ビシュリ山系北西のエルコウム地区ではフランス隊が継続的な調査をおこなうこととなった。フランス隊は中期旧石器時代初頭フンマリアン文化の指標遺跡となったフンマル井戸遺跡や、中後期旧石器時代移行期の石器群が検出されたウムム・エル・トレール遺跡など多くの重要遺跡の発掘調査をてがけ、顕著な成績をあげている。どちらも、元来、東大隊が1967年に発見した遺跡である。あのとき、東大隊がエルコウムを本調査地に選んでいたらその後の展開がどうなったか気にならないわけではないが、当時は洞窟探しが第一であったのだから石灰岩洞窟が発達したパルミラ地区が選ばれたのはもっともなことではあった。

  1984年まで続いた東大隊の調査成果は東京大学総合研究博物館の前身、総合研究資料館の紀要7冊に分載されている。それらを精査したところ、東西40キロ、南北35キロほどの対象地域内で総計78の遺跡が登録されていたことがわかった。また、総合研究博物館所蔵標本にもとづき各遺跡の時期を再鑑定することによって、当地の居住史をある程度再構築することが可能になった。遺跡は前期旧石器時代から新石器時代までの各期にわたるが、時期別増減につき一点、顕著な特徴をあげるとすれば、先土器新石器時代B末期(紀元前7000-6500年頃)の遺跡が圧倒的に多いという点である。実に61遺跡でその居住痕跡が認められた。先土器新石器時代前半の遺跡は全くないから、この内陸乾燥地帯に忽然として遺跡が増加したことがわかる。

 エルコウムでのフランス隊の成果、あるいはユーフラテス中流域のボクラス遺跡の発掘結果などをもってしても、シリア砂漠北端のステップで先土器新石器時代B末期に人々の本格的拡散がおこったことはうたがいない。その要因は牧畜の本格導入ではなかったかとの指摘もJ.コヴァンらが既におこなっている。パルミラ盆地でも事情は同じだったようである。東大隊が見つけた遺跡はドゥアラ第二洞窟といった洞窟(写真3)、ドゥアラ盆地に密集する石器製作址(写真4)、さらにはサニエット・ウケル遺跡のような塩湖畔の散布地(写真5)まで様々である。しかし、テル型遺跡はなく、どれも長期的な定住集落とはいいがたい遺跡ばかりである。採集品に穀物刈り取り具や磨石などは皆無に近い。遊牧民の野営地ないし作業場であったとみるのが妥当だと思う。このことは、現在の伝統的土地利用に照らしても首肯できることである(写真6)。

写真3 ドゥアラ第二洞窟


写真4 ドゥアラ盆地の石器製作址

写真5 サニエット・ウケル遺跡

写真6 ドゥアラ洞窟群周辺に残る現代の遊牧民野営地跡

 ここでいう遊牧民が、もっと降雨量の多い地域にあった定住集落からの派遣集団であったのか、それとも本物の遊牧民であったのかの解釈は意見が分かれるかも知れない。だが、筆者は後者だったと思う。というのは、石器の製作技術が同時代の周辺定住集落のそれとは異なっているからである。パルミラの先土器新石器時代B末期遺跡の石器群では、筆者がドゥアラ型ナヴィフォーム式とよぶ技術が頻用されている。この技術は先土器新石器時代B中期にユーフラテス川中流域の定住集落で確立したものだが、後期末には廃れてしまっている。パルミラのような内陸乾燥地に展開していたのは、末期になってもなお時代遅れの技術を保持した集団だったのだと考えられるのである。

  さて、本特定領域研究では、ビシュリ山系にいたセム系集団の出自を探ることが一つの大きな目的になっている。焦点は、パルミラを闊歩した先土器新石器時代B末期の遊牧民たちが、楔形文書時代に現れるセム系遊牧民のルーツとなったかどうかである。残念ながら、パルミラ地域では、彼らのその後の動向を語りうる遺跡が報じられていない。次に遺跡が急増するのは、数千年も後、いわゆる「パルミラ」の時代、ローマ時代である。もちろん、ローマ時代まで当地が無人であったことは考えがたいから、見えにくい遊牧民の遺跡が記録されなかっただけということは十分ありうる。実際、東大隊のパルミラ調査は旧石器時代遺跡に焦点をあてていたから、完新世後期の遺跡にあまり関心を寄せていなかったことは否めない。

 ビシュリ山系で本格調査が実現した場合、そこで旧石器時代から新石器時代にかけてのどんな遺跡が見つかるかは、パルミラ、エルコウムの成果に照らせばおおよそ予想できる。また、常木晃(本誌第3号)が報じたようにローマ時代以降の土地利用もだいたい検討がつく。だが、この間の数千年間には長大なミッシングリンクが横たわっている。銅石器時代や青銅器時代にはまだ石器が幅を利かせていたに違いないから、眼をこらせばそうした石器が採集できる可能性は十分にある。また、藤井純夫(本誌第1号)がしばしば強調するように、石造りの墓が残されていれば、それも見えるはずである。ビシュリ山系の調査の際にはぜひこの間の遺跡を見つけ、先土器新石器時代B末期の人々の顛末を調べてみたい。