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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.3 (2006年8月号)より
公募研究「北方ユーラシア遊牧民部族社会の考古学的研究」の開始にあたって 
高濱 秀(金沢大学)
公募研究「北方ユーラシア遊牧民部族社会の考古学的研究」研究代表者
 特定領域研究「セム系部族社会の形成:ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究」に関連する公募研究として、我々の研究計画を選んで頂いたことにまず感謝の意を表したい。そして以下に我々の行っている研究と、今回の研究方針などについて述べたいと思う。

 我々の主に研究しているのはユーラシア北方草原地帯の騎馬遊牧民である。具体的に言うと、黒海沿岸のスキタイ、ドン・ヴォルガ川あたりのサウロマタイ・サルマタイ、中央アジアのサカ、山地アルタイのパジリク文化の民族、中国の北の匈奴などが、それに相当する。彼らを西アジアのセム系部族の遊牧民と比べると、地域だけでなく、年代の上でも大きな差がある場合が多い。
そして更に重要なことは、スキタイ、サルマタイ、匈奴などの遊牧民は、騎馬を用いて遊牧を行なうことを始めたと考えられていることである。これにより現在までこの地域で行われている騎馬遊牧の原型ができたと考えられているのである。

  ソ連の学界では1960年代に、これらスキタイなどの民族を初期遊牧民rannie kochevniki (earlynomads)と呼び始めた。それはスキタイなどの一定の民族・地域をその始祖あるいは代表にすることを避けた呼び方である。しかしこの呼び方は、セム系の遊牧民と比較を行う際には、いささか混乱を招くかもしれない。区別するために、ここでは我々のほうの初期遊牧民を「初期騎馬遊牧民」と呼ぶことにしよう。

 初期騎馬遊牧民が生まれたのは、紀元前1千年紀の始め頃と考えられている。彼らの文化は、特色のある武器、馬具、そしてそれらを飾る動物紋様を共通の特徴としており、この種のものは、スキタイ、サウロマタイを初めとして、シベリア、中国の北まで、草原地帯の至るところに広まった。このような文化の起源について、1970年代頃までは、スキタイの西アジアへの侵入を契機として西アジアにおいて形成されたものと考える説が有力であった。しかし近年では、初期騎馬遊牧民文化の東方起源説が有力になってきたといってよいであろう。特に、1971.1973年に南シベリア、トゥバにおいて行われたアルジャン古墳の発掘が,その契機となっている。そこで出土した鏃や馬具は、型式的に黒海沿岸ではスキタイ文化以前に見られるものに相当する一方、完全に完成した形のスキタイ式の動物紋様も出土したからである。また中国北辺東部に分布する夏家店上層文化には、動物紋様など初期騎馬遊牧民文化に共通する要素が認められ、その年代が西周時代後期から春秋時代前期、すなわち黒海沿岸の先スキタイ期に相当することも明らかになってきた。このように草原地帯東方におけるこの時期の様相が注目されるようになってくると、また調査の比較的行き届いていないモンゴル高原の状況が問題になってくる。


写真1 遺跡全景
 モンゴル高原においては、鹿石と呼ばれるものが知られている。高1〜3mほどの方柱状の石に鹿などの図像を彫りこんだもので、その鹿の図像から初期騎馬遊牧民文化とのつながりが早くから考えられていた。しかしE.ノヴゴロドヴァの研究によって、鹿とともに彫りこまれた剣や戦斧などの武器が、商代、西周時代に併行する中国北辺のものや、夏家店上層文化のものと類似することが明らかになった。以前に考えられていたよりも古く、前2千年紀の後葉から前1千年紀前葉ということになる。鹿石はモンゴル高原において最も多く発見され、すでに500個を超えている。
またザバイカリエ、アルタイ、新疆ウイグル自治区、ウラル地方、北カフカス、黒海北岸からも少数発見され、北カフカス出土のものは、先スキタイ時代の古墳に伴っていた。アルジャン古墳からも鹿石の一種の破片が発見されており、アルジャン古墳自体よりも古い時期のものとも考えられている。このようにして鹿石は初期騎馬遊牧民文化の始まりの頃と強い関係を持つことが推測されるようになってきた。

  またモンゴル高原においては、青銅器時代の埋葬址と考えられる遺構として、ヘレクスルが知られている。ヘレクスルとは、積石塚を方形あるいは円形の石列で囲ったもので、多くの場合、主にその東側に石堆が複数置かれ、さらにその外側に全体を囲むようにして、数個の石からなる小型ストーンサークルを何重にも配置することもある。発掘しても遺物の出土例がほとんどないところから、その年代には異説もあり、用途についても、墓というのが定説になったとはまだ言いがたい。しかし初期騎馬遊牧民時代になって、ユーラシア草原地帯に突然出現する大型墳丘墓の先蹤としてヘレクスルを考えることは、きわめて自然なことである。

 近年我々はモンゴルのオラーン・オーシグI遺跡で調査を行っている(写真1)。この遺跡はモンゴル中西部の北側、フブスグル県の県庁所在地ムルンの西側20qほどのところに所在する。セレンゲ川に西から流入するデルゲル・ムルン川の北岸で、オラーン・オーシグ(「赤い肺」の意)という山の東側である。ここには大小約15基ほどのヘレクスルと14個の鹿石があるが、ヘレクスルは
遺跡の北部に多く、鹿石は3個と11個の2群に分かれて、遺跡の南部に見出される。ロシアのV.ヴォルコフとE. ノヴゴロドヴァがオーシギーン・ウブルという遺跡名で調査報告を発表しており、鹿石の遺跡として有名である。特に14号鹿石には上に人面が表わされているが、元来戦士を表わしたものと考えられる鹿石の代表的な存在でもある(写真2, 写真3)

写真2 14号鹿石

写真3 2号鹿石
 オラーン・オーシグ山を東、南、西の方向から取り巻いて、10箇所ほどのヘレクスル群が見出される。この遺跡はその一つであり、また鹿石を伴う唯一の遺跡でもある。また山のウブル(南)ではなくほぼ東に位置している。我々は、調査に当たってその全体的な立地を前提とする必要があると考え、この遺跡をオーシギーン・ウブルではなく、オラーン・オーシグIと呼んでいる。

  我々がここを調査対象として選んだ理由は、モンゴル青銅器時代の主な遺構と考えられる鹿石とヘレクスルが共に存在するからであり、その2種の遺構の関係を捉えるのに適当と考えたからである。そのほか、やはり青銅器時代の墓である板石墓も1基あり、少し離れたところに数基見出されている。

 我々は既にこの遺跡において1号および12号ヘレクスルを調査し、南部の鹿石の周辺をも一部発掘した。1号ヘレクスルは積石塚の直径が約13m、高さ2m足らずで、方形の石列によって囲まれ、主としてその東側に21基の石堆をもつ(写真4)。12号ヘレクスルはこの遺跡で最も小型のもので、直径9mの積石塚の周りに石列が円形に周るものである(写真5)。南側に石堆が1基あるが、それは同時期のものかどうか、よく分からない。


写真4 1号ヘレクスル

写真5 12号ヘレクスル
  1号ヘレクスル東側の大部分の石堆からは、鼻面を東に向けた馬の頭骨と頸椎が出土した。また4号鹿石周辺のストーンサークルからも、同様の形で馬の頭骨と頸椎が発見された。石堆とストーンサークルの構築法にも似たところがある。そこからヘレクスルと鹿石は、ほぼ同じ時代に同じ人々によって造られたという推定が導き出されるであろう。

  1号ヘレクスル積石塚の縁辺から鹿石の一種と考えられる石が1個発見された。これは鹿の図像が表わされず、単に円が二つ彫られただけのものであるが、このような石には他にも多くの類例があり、鹿石の一種と認められている。今回発見された石はこの積石塚に付属するものであり、積石塚と同時期であろう。鹿の図像を持つ鹿石とこの種の単純な鹿石が、どのような関係にあるかが問題となる。

 1号ヘレクスルの中心の積石塚からは、石棺が発見されたが、中に人骨は発見されなかった。また12号ヘレクスルのなかにあった石棺からは、5、6歳の小児の骨が出土した(写真6)。それらの骨のなかには焼かれたものもある。なぜ人骨が発見されない場合があるのか、その理由はまだ不明である。タルバガンなどの小動物によって骨まで食われてしまった、あるいは遺体を納めない象徴的な墓であった、などの理由が考えられよう。いずれにしてもヘレクスルが基本的に埋葬施設であったことは証明されたといってよいであろう。

写真6 12号ヘレクスル石棺
 そうすると、このオラーン・オーシグIにある15基ほどのヘレクスル群は、家族あるいは一族など何らかの親縁関係にある人々の墓と考えることが許されよう。
5、6歳の小児のために、小型であるとはいえ、直径9メートル程の積石塚が造られたのは、その小児の社会的地位の反映なのであろうか。

  先に述べたようにオラーン・オーシグ山の周囲には10箇所ほどにヘレクスル群があるが、これらのヘレクスル群のヘレクスルにはそれぞれ大小があり、オラーン・オーシグVや、Xにはかなり大型のものがある。特にXにあるものはきわめて大きい。またヘレクスルの型式も一様ではなく、四隅に立石のある四隅立石墓ともいうべき墓のある群もある。これらのヘレクスル群は、お互いにどのような関係にあった人々の残したものであろうか。当時の社会を考えるには、これらの問題にある程度の解答を与えなければならないであろう。

 鹿石の周りには数多くのストーンサークル状のものがある。4号鹿石附近のストーンサークルではヘレクスルと同様の馬の頭骨の儀礼が見られ、鹿石群は全体として何らかの儀礼的な遺構と考えられる。昨年調査した第7号鹿石周辺では、当初ストーンサークルと思われたものが意外に高さがあり、石堆あるいはほとんど小型の積石塚ともいうべきものであったことが判明した(写真7)。他の遺跡でも鹿石群の周りにストーンサークル状のものがあることは知られているが、発掘によって元来の様相を明らかにした例はない。

写真7 7号鹿石附近
 我々は、今年度はこのオラーン・オーシグI遺跡において、第7号鹿石周囲の発掘を継続することにより、部分的ではあるが、鹿石群の元来の構造を明らかにしたいと考えている。鹿石群の元来の構造を知ることは、騎馬による遊牧に移行しようとしていた時期の牧畜民の精神生活について、大きな手掛かりを得ることになるであろう。また鹿石の三次元のデジタル記録を作成することを計画している。ほとんど全ての鹿石の拓本をすでに採ってはあるが、この遺跡がますます観光地化し、鹿石も損傷を受ける可能性があることを考えると、単に鹿石の図像だけではなく、鹿石全体の現時点での記録をとっておく必要があると思われるのである。

 来年度は西アジアに現われた初期騎馬遊牧民スキタイや、セム系部族との類似点・相似点などについて考察するため、西アジアにおける遺跡や、ロシアにある遺跡、博物館などを訪れて調査したいと考えている。