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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.3 (2006年8月号)より
パルミラの植物文様 
宮下佐江子(古代オリエント博物館)
計画研究「オアシス都市パルミラにおけるビシュリ山系セム系部族文化の基層構造と再編」
研究代表者
  パルミラは紀元前18世紀のマリ出土文書に「タドメル人」について述べられ、紀元前14-13世紀のエマル文書に3人の「タドモル人」の名前と1人の印章が押されているなど古くから知られていたが、その存在が最も大きく歴史の中で花開いたのは紀元後1-3世紀のローマ帝国属州の一都市としてパルティアとローマの交易の仲介地となって発展した時代である。
パルミラに残された美術作品をみると、ギリシア=ローマ的要素と東方パルティア的要素、西アジア古来の伝統的要素が混ざり合った独特の様式を呈している。本研究では従来述べられてはいたが、表層的に看過されてきた感のあるパルミラ美術をより精査することによってセム系部族社会が形成された後の時代のその本質の理解に努めようとするものである。

パルミラの植物文様

 パルミラは石造りの建築遺構が2000年前のこのまちの栄華を伝えているが、そこにあらわされた植物文様の多彩なこともつとに知られている。
 多くの隊商が行き交ったであろう記念門(図1)には、アカンサスの樫の葉を基調にした連続文様と六弁ないし八弁の花、、ナツメヤシの幹やクローバー形の葉をもつ蔦が刻まれている。(図2)

図1 記念門

図2 記念門脇柱文様
 また、そこから続くメインストリートはやはりコリント式のアカンサスをもつ円柱が7m間隔で約1qにわたって続いている。この記念門とメインストリートは2世紀後半の建立とされる。
この記念門の後方、東南方向にあるベール神殿はパルミラ最大の神殿である。しかし、この神殿の位置はパルミラの主神殿でありながら現在見られるまちの中心軸からずれている。神殿はまちの中心に位置するという原則からはずれたパルミラの構造に長年疑問をもっていたが、ウイーン大学のシュミット・コロネ教授はこのずれこそがパルミラの紀元1世紀後半の大洪水の証拠の1つとみている。

  沙漠で大洪水ということに違和感があるかもしれないが、パルミラも冬には雨が降り(時には雪も降る)、その量が多いときには遮るものがない大地を奔流となって濁流が襲うという。これまでも20年に1度くらい洪水があり、そのためパルミラ博物館の入り口は高くしてあると聞いている。
奈良・パルミラ遺跡調査団による東南墓地の発掘でもC号墓の内部に洪水の跡がみられ、そのためこの墓は3代ほど使用されただけで断

  絶したことが明らかになっており、沙漠の洪水は決して特異なことではない。
シュミット・コロネは、ヘレニズム時代のまちは現在の道路とナツメヤシの果樹園の間の今は土の堆積しかない場所にあったとして数年来発掘を行って、ヘレニズム期とみられる住居を検出している。パルミラは1世紀後半に大規模な洪水に見まわれ、それまでの市街地から現在残されているメインストリートを中心とする新しいまちが建設されたという。この地域の発掘がすすめば、西方の影響を受け入れたパルミラ興隆期の最初の様相が明らかにされるであろう(図3)。

図3 シュミット・コロネによる発掘現場
 さて、ベール神殿は紀元後32年に本殿が奉献され、2世紀半ばまで正門や柱廊が建設され続けたが、その区域は青銅器時代中期(紀元前2200-1550)にさかのぼる聖域であり、古来からの伝統を内包した宗教建築物である。その本殿は西アジア式神殿の特徴をもち、柱廊と本殿の屋根は別作りでそれぞれの縁にアッシリアの宮殿に見られるような凸形飾りがついていた。本殿内部の南北の神像安置所や門の入り口に葡萄唐草文やアカンサス、ナツメヤシの幹などの植物文様が西方伝来の卵鏃文様とともに刻まれている(図4、5)。
図5 ベール神殿入り口脇柱の彫刻

図4 ベール神殿本殿入り口上部の彫刻
 柱廊の天井は大梁を渡していたが、現在では本殿の門の右側に置かれている。これらの梁のなかで駱駝の背中に覆いをかけた神聖なものを運ぶ祭儀の場面がある。頭からすっぽりと布を被った現在の厳しいイスラーム教徒のような女性が付き従う不思議な光景である(図6)。


図6 大梁 聖なるもの(?)を運ぶ駱駝と奉献者たち
  もう1つは下半身が蛇で上半身が人間の怪獣と戦う神々が描かれているが、神々は武装してはいるが、正面を向いて整列し、戦いの躍動感は全くあらわされていない(図7)。

 両者の下段には我が国の奈良薬師寺金堂本尊台座の葡萄唐草文に通じる勢いのある葡萄文様がみられる。これは精緻な観察によってデザイン化されていると同時に写実的でもある、見事な作品である。


図7 大梁2 左側に蛇脚の怪獣がいる
  この梁の下面に、アカンサス唐草文に有翼女神やパルミラでは非常に珍しい裸体の有翼男性像、エロス、馬の上半身をえがいた浅浮彫がある(図8、9)。
この浮彫は普段は大梁の下面にあって見ることができないが、筆者の所属する博物館でパルミラ彫刻の写真集を製作したときに、ホテルの部屋の鏡をはずして地面と梁の間に差し入れ、撮影することができた。花綱やリース、アカンサスの葉の間に人物を配する構図はローマの石棺彫刻やモザイク装飾にみられるものであり、半身の動物が植物文に囲まれるものもモザイク画にある。しかし、この梁の浮彫では馬は傍らのエロスが茂みから生まれ出た馬をその前脚を掴んでひっぱりあげているようで、モザイクや石棺彫刻の植物文が純粋な空間装飾として採用されている装飾性に比してアカンサスの葉は生き物そのものでさえある。
図8 大梁2下面 有翼女神と裸体の有翼男性像 図9 大梁2下面 アカンサスから生まれた馬をひっぱるエロス
植物から生えでた人間の表現は豊穣・多産の象徴としてロマネスクやゴシック建築のいわゆる「グリーン・マン」やイスラームの「ワークワーク文様」にみられるが、それらにさきがけて奈良・パルミラ遺跡調査団によるF号墓の墓室内の梁には植物から発生する人物像浮彫がある(図10)。
植物から生えるといえば、エジプトのヌウト女神がイチジクの樹の化身としてあたかも樹から生えた姿で描かれることがあるが、ヌウト女神のような表現はエジプト以外の西アジアではこれまで出現していなかった。
植物から生まれるもののエジプト以外の西アジアでの美術表現の嚆矢はパルミラにあると言ってよいだろう。それらがどのような意味をもっていたのか、パルミラの人々の植物に対する想念などを今後の調査のなかで明確にしていきたいと考えている。

図10 東南墓域F号墓東側壁面上部の梁の浮彫にみられる植物から上半身をのぞかせる裸体の人物