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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.6 (2007年3月号)より
2007年3月ビシュリ山系現地調査
星野光雄(名古屋大学大学院環境学研究科)
計画研究「環境地質学、環境化学、14C年代測定にもとづくユーフラテス河中流域の環境変遷史」研究代表者
1.はじめに

 この特定領域研究が発足して2年目の2007年2月、大沼代表はじめ関係者の忍耐強い努力が実り、シリア考古局から待望の調査許可が下りた。これを受けて各研究班は早速、現地調査に赴いた。自然科学分析班からも田中剛、中村俊夫、そして私の3名が2007年3月9日〜18日の期間、現地調査を実施した。短期間ではあったが、先発隊およびシリア側共同研究者の方々の多方面にわたるご配慮のお蔭で、多くの収穫を得ることができた。
 私ども3名にとって初めてのシリア渡航であったため、見るものすべてが興味深く、目に触れたものすべてについてしっかりと観察してきたつもりである。本稿では、今回の現地調査で出会った事柄を旅日記風に記述した。そのため、調査以外のお粗末な見聞録が多くなってしまった。この点をご寛容いただきたい。

2.上空から見たアラビア半島


図1.サウジアラビアのセンターピポット灌漑農場群(田中写)
 2007年3月10日土曜日午後2時、飛行機はダマスカスに向けてドバイを飛び立った。ドバイからアラビア半島南部をかすめてナイロビへ向かう飛行コースは何度も経験しているが、今回はアラビア半島北部を縦断するコースをとる。このため、いままで見たこともない感動的な景観に遭遇できたのである。
  窓際の席に座った同僚の田中さんが最初に発見し、何枚かの写真に収めたものは、緑被のほとんどない乾ききった陸地に点々と、あるいは密集して見られる緑の円形パターンであった(図1)。Google Earthの画像にも明瞭に写っていることは後でわかったのだが、これらの正体は、センターピポット方式といって、帯水層から汲み上げた地下水を350m以上もの長い腕をもったスプリンクラーをゴロゴロと回転させながら散水して小麦などを栽培する灌漑農場である(地球観測研究センターHP)。サウジアラビアでは、この農法によって小麦の輸出が可能なほど生産高が上昇した反面、地下水の枯渇が大いに危惧されているそうである。北米グレート・プレーンズの二の舞になりかねない。


3.待望のダマスカス


図2.ダマスカス市街からカシオン山を望む(星野写)
 約1時間半のフライトの後、無事ダマスカス空港に着陸した。通関手続きを済ませ、銀行で各人150ドルを換金した後、タクシーに乗り込む。ダマスカスへ向かう街道沿いの緑が想像以上に豊かで、なかには桜のような花をつけた樹木も見られるが、それらは植林らしく、灌漑により維持されている緑地帯のようだ。市街地が近づくにつれ、200万都市の雰囲気が漂ってきた。街の背後にそびえる奇怪な禿山、カシオン山が真っ先に目に飛び込む。急斜面の中腹までびっしりと、張り付くように建ち並ぶ住宅群(図2)が実に異様だ。旧約聖書にその名前が記された山の雰囲気は十分ある。

 あらかじめ大沼さんに予約していただいたスルタン・ホテルに着き、レセプションで大沼さんの親切なメッセージと英文レポートを受け取る。ラッカ博物館のナウラス氏とアイハム氏が今夜面会に来る旨がメッセージに記されており、何から何まで手配していただいていることに感謝する。午後7時に二人が現れ、明日以降の調査計画を打ち合わせた。こちらは右も左もわからない身であり、ナウラス氏の提案をまるごと承知して別れた。

 明けて3月11日金曜日、9時半にホテルを出てダマスカス博物館に向う。途中、三面工法で防護された直線状のバラダ川に出合う。あまりにも人工的過ぎて感心しない。川沿いの遊歩道で行われていた改修工事をしばらく観察する。四角く整形した玄武岩を敷き詰めている最中で、こちらは美しい歩道ができつつある。田中氏は、一般的には使われない玄武岩の敷石に大層興味を示す。

 前夜の打ち合わせ通り10時に考古局ミッシェル氏のオフィスを訪問するも、会議中とのこと。待ちぼうけはケニアで慣れてはいるものの、秘書室で1時間半ほど待って我慢し切れず、ナウラス氏に電話する。ところが、「今日は重要な会議でミッシェル氏も自分も午後3時頃まで抜けられそうもないからホテルで待機するように」との返事。仕方なくミッシェル氏への手土産の別刷りとメッセージを秘書に託してホテルに戻る。ただし、ホテルでじっとしているような我々ではなく、街を探索する絶好のチャンスとばかりヒジャズ駅方向に飛び出した。鉄板で焼いたクレープ風の薄皮(後でホブスという名前の主食であることを知った。何と勉強不足!)で肉と野菜を棒状に巻いた食べ物(サンドイッチ)とコーラを買って昼食とした。これがなかなかの美味で気持ちが一時的に和らぐ。3時が過ぎてもナウラス氏の来る気配がないので再び電話すると、今そちらに向かっているとの蕎麦屋の出前のような返事。結局、ホテルを出発したのが午後3時半。「今日中にラッカに辿り着くのですか?」と聞いたほど遅い出発であった。初日からどっと疲れが出た。

4.一路ラッカへ

 ナウラス氏が用意してくれたタクシーは、彼が普段、便利に使っている友人のものらしい。ヒュンダイ製ステーションワゴンに私ども3名とナウラス、アイハム両氏、それにドライバーのアゼズさん、そしてなんとナウラス氏の奥さんと子供まで乗っているではないか。さあいざ出発、と思いきや、空港でアナス氏を拾ってからラッカへ向かうとのこと。「アナス氏も共同研究者の一人ではあるし、また、奥さんと子供を一緒に乗せるのも構わないけど、余りにも“ついで”が多すぎるのではないですか。タクシー代はこちら持ちなんだから、あらかじめ一言いってほしいよね」と口に出かかったが、国民性の把握には時間がかかることもあろうと自分を納得させた。

  ダマスカスから国道を北上すること約2時間、夕闇迫るホムスに着く。ドライブインで食事をとって再出発。ラッカへは何と深夜の23時半に到着した。それにしても韓国製のヒュンダイはよく走る。韓国の力を見直した瞬間である。道すがらの地形・地質・植生も明るいうちはよく観察できた。アンチ・レバノン山脈の東山麓でさえ森林と呼べるような緑被はほとんど見られないこと、したがって地質構造が詳細に観察できること、ダマスカスの敷石に使われていたような玄武岩の石切り場が多いことなどを確認し、乾燥地であることを実感した。その夜は1ランク上のラザワード・ホテルでぐっすりと眠りに就いた。


5.調査1日目

 3月12日月曜日、先ずラッカ博物館へ向かう。こじんまりとした博物館らしい趣の建物である。一階ホールの中央にラッカ新博物館の模型が展示してあった。目下概算要求中とのことで、かなりの建築費とみたが、本当に実現したらアレッポ博物館に負けない立派な博物館になるだろう。ナウラス氏の力の入れ様がよく理解できた。肝心の考古資料の重要性については、正直にいってよく解らないが、もう少し陳列に工夫があってもよいのではないかとの印象をもった。


図3.ユーフラテス河の氾濫原と高位段丘群(星野写)
 ひとしきりナウラス、アナス両氏と歓談した後、市内にあるオールド・モスク、イスラミック・スクール、城壁公園の遺構を見学した。ローマ時代〜イスラーム時代の歴史や建築様式に関する懇切なレクチャーをうけ、「シュックラーン」、「アフワン」の挨拶も教わり、オールド・モスクではもてなしのお茶をご馳走になった。当時も旅人には同じように接したことだろう、と勝手に想像した。城壁公園近くの新しいモスクも時間をかけて見学し、装飾の見事さにしばし見とれた。ここで初めて気づいたことだが、シリア人の昼食は必ずしも12時前後ではないようだ。

 さあ、いよいよフィールド、と時計を見るともうすでに14時。今回は予察と割り切っているのであせりはない。ユーフラテス河沿いの国道をひた走ること小一時間、先発隊が選定した発掘候補遺跡のひとつ、テル・ハマディーンに到着した。現在、墓地として使われていることは一目でわかる。しかし何故これまで発掘が行われず、手付かずの状態であったのかをあれこれ考えてみた。墓標に使われている石材は大変興味深い。スレートのように扁平に剥離した乳濁色〜淡緑色の石材は、一見石灰岩のようでもあり、どこか違うようでもある。剥離面は鏡のように光を反射して、単結晶の結晶面に似ている。村人が近くの山から運んできたものに違いないと思い、明日以降の調査で採集場所を特定することとした。次に訪れたもうひとつの発掘候補遺跡であるテル・ガーネム・アル・アリも、同様に墓地として使われている。これらの小高い丘が、自然地形であるのか、それとも遺跡であるのかを即座に判断できる考古学者の目に感心しきり。ユーフラテス両岸に発達する氾濫原と河岸段丘は、教材として使えるほどに見事なものであった(図3)

 帰りがけ、この地区の村長マハメッド氏宅に挨拶に伺う。高位段丘面からビシュリに続く台地斜面上にある豪邸の庭で出迎えていただいた。すでに村の長老らしき人物二人も居並び、サーバント・クォーターに出たり入ったり、少年が甲斐甲斐しくお茶やコーヒーを運んでくれる。やはり金持ちは高い所に住んで下界を睥睨したいのだろうか。ナウラス氏の通訳によれば、「このような家を発掘の際には基地として提供してもよい」とマハメッド氏が言っているとか。小一時間歓談した後、近くのレストランで夕食をご馳走になった。夜風は冷たくとも、夕食にはやはりビールが欲しい。敬虔なムスリムは本当に酒を飲まないのだろうか。スーダンでは、カルツーム大学の教授や地方の行政官がしばしば密造酒で酒盛りをしていたことを思い出した。もしかすると彼らは敬虔なムスリムではなかったのか。

6.調査2日目


図4.テル・ハマディーン盗掘跡の地層断面(星野写)
  3月13日火曜日9時前にホテルを出発。博物館に向かう途中の金物屋で長い柄のついたスコップを買う。125S£と、信じられないくらい安い。博物館を10時半に出発し、昨日のフィールドへ向かう。
途中、サブハの町で大きくて厚目のホブスを10枚くらい、それにトマト、キュウリ、ネギ、缶詰類などを買い込む。どんな昼食となるのやら楽しみでもある。今日は背の高い怖そうな顔のモハムッド氏も同行。



図5.テル・ハマディーンの塩類殻(田中写)
 昨日目を付けておいたテル・ハマディーンの盗掘跡に露出する地層断面を丹念にスケッチし、土壌・堆積物を次々サンプリングした。
図4に示すように、5層のシルト層と1層の火山灰層らしきものが識別され、炭質物らしきものも含まれている。層理面も明瞭である。我々には自然堆積物のようにみえるが、古代遺跡の構造説明にあるような人工的な丘なのかもしれない。今後の興味深い研究テーマとなりそうである。テルの裾一面に塩類が析出し、厚さ5mmくらいの塩類殻を作っている(図5)。


図6.昼食風景.左から中村さん、モハムッド氏、アゼズ氏、
ナウラス氏、星野(田中写)

図7.ゼノビア・ハラビア火山(星野写)
周囲の灌漑地の影響であろうか。一仕事終わり、畑の中での昼食を楽しんだ。新聞紙を広げたその上にホブスの円盤をポンポンと投げ広げ、さらにその上に食材を無造作に載せ、好みのスタイルで食べる(図6)。

テル・ガーネム・アル・アリの表層土壌・堆積物を記載・サンプリングした後、東方のゼノビア・ハラビア火山岩体に向かった。全山が玄武岩溶岩でできている(図7)。
地質学的に興味深いのは、孤立した火山岩体がビシュリ山系に点々と存在する事実である。紅海−死海地溝帯に関連する火山活動とは考えにくく、このような安定したアラビア半島内部での新生代の火山活動は今後の課題である。
7.調査3日目



図8.ビシュリ台地の斑点状草本群落(星野写)
 3月14日水曜日朝一番に、「テル・ハマディーンとテル・ガーネム・アル・アリの発掘許可が下りた」旨、ナウラス氏から伝えられた。このことを大沼さんに早くお知らせしなければと考え、日本から持参したノキアで何度か国際電話を試みたが(使い方が理解できていなかったため)なかなかうまくいかず、16日早朝にやっと連絡できた。さて、かねてナウラス氏に依頼しておいた詳細地質図が手に入るというので、地質調査所ラッカ出張所を訪ねる。100万分の1シリア全図はすでに持っているが、ビシュリ山系一帯のより詳しい地質図を探していたところである。さすがに地調、ソヴィエト調査による20万分の1地質図(1963年出版)を持っていた。ここにも中東現代史の一端が垣間見える。ビシュリ台地の調査に丸1日を使う当初の予定が大幅に狂い、地質図の件に加えて、どこに連れて行かれたのかわからないが、とにかく役所の立派なオフィスに通され、紹介されたことも重なって、これらで午前中を費してしまった。

 ガーネム・アル・アリの町から南へ延びる幹線道路を見つけ、どんどん登る。この日は、ドライバーのアゼズ氏以外に博物館のモハムッド氏のみの同行であったため、思うように意思疎通が図れず、大変苦労した。例えば、ビシュリ台地にあるいくつかの遺跡を見学した時のこと。小高い丘の上に掘られた穴を指差して説明してくれるのだが、「ビル」という言葉が盛んにでてくることと大沼さんのレポートにあった「Bir」とが結びついて何となく理解できた。レポートにあらかじめ目を通しておいてよかったー!しかし、これでは何とも心もとない。アラビア語日常会話の必要性を痛感した次第である。台地には、スミレに似た可憐な草本群落が斑点状に見られ、そこの表層土壌は周囲に比べて若干湿っぽい(図8)。下層が不透水層であるか、あるいは地下水面が近いかのどちらかであろう。

図9.ビシュリ台地の中新統.上から石灰岩/石膏、シルト岩、
泥岩(星野写)

図10.風化を受けて板状に割れた石膏層(星野写)

 標高380mあたりからガーネム・アル・アリの町にかけての地質は、中新世トートニアン期に堆積した4層の石膏/石灰岩の地層と、それらの間にあるシルト岩・泥岩の地層(図9)が主体を占める。層理面は水平に近く、断層や褶曲などの変形構造は認められない。石膏層は、乾燥環境下にある静かな浅海で形成される典型的な蒸発岩であることから、詳しく分析することで当時の環境をかなり正確に推定することができるかもしれない。

 ところで、調査1日目に見た墓標の石材の産地であるが、石膏層の風化の様子を観察したところ、図10に示すように板状の割れ目が発達していた。これならば簡単な道具で掘り起こすことが可能であるとの理由で、
墓標の石材はこのあたりから掘り出した石膏と推定した。若干緑がかっている点も根拠の一つにあげられる。

 翌3月15日木曜日、大沼さんから出発前にメールでお知らせいただき、ナウラス氏からも依頼されていたレポートを今日中に仕上げて考古局に提出しなければならないのである。したがってこの日は必死で英文レポートの作成に励む。午前中に書き上げ、午後からは街を散策するとの淡い希望もむなしく、また、英文がすらすら出てくる力もなく、結局、夕方までかかって仕上げたレポートをナウラス氏に提出する始末であった。ナウラス氏も、その夜は必死でアラビア語に翻訳
したとのことである。

8.ダマスカスへの帰路


図11.パルミラ遺跡(星野写)
 3月16日金曜日、10時にチェックアウトを済ませ、ラッカを出発した。途中、レサファ遺跡とパルミラ遺跡に立ち寄るという欲張りな計画を立てたまではよかったが、案の定、ダマスカス到着は深夜となった。ラッカ初日に、ベルリン工科大学教授のドロシーさんと博物館で挨拶した際、「レサファにも是非立ち寄ってほしい」と言われ、また興味もあったからである。

 レサファの主ともいえるドロシーさんのベースキャンプには正直驚いた。広い敷地に立派な施設が建っていて、清潔なトイレと台所、食堂、寝室すべてが完備している。さすがにドイツ調査隊と感じ入った。というのも、スーダンでとぼとぼと地質調査をしていた1991年、ドイツの地理学調査隊と出くわし、そのときの巨大な、冷房・バス・トイレ・キッチン完備の装甲車のようなキャンピングカーを思い出したからである。それはさておき、まだ何年かかるかもわからないが学術的意義の大きな遺跡発掘に対する息の長いドイツの文教政策に敬意を表したい。夢に見たパルミラ遺跡も印象深かった。どこをどう撮っても絵になる遺跡である。逆にいえば、誰もが感心する写真はなかなか撮れないということだ。最後に月並みな写真を掲載させていただく(図11)。スルタン・ホテルの前でナウラス氏、モハムッド氏、アゼズ氏から次々とお別れの抱擁を受け、再開を約束した。

 翌3月17日土曜日、唯一まとまった時間が取れたこの日はオールド・ダマスカス方面を精力的に歩き回り、シリア滞在最終日を堪能した次第である。


9.おわりに


図12.ラッカ新博物館の模型(田中写)
 

現地調査が始まったばかりでこのようなことを言うのはおかしいが、思い起こせば、特定領域計画書に明記された研究の意義「セム系部族社会=イスラーム原理主義=テロリストという偏向的で短絡的な観念を根本から見直させるものである」に素直に感動した覚えがある。私が鈍感であるせいかもしれないが、今回訪れた場所のどこにも、きな臭い雰囲気を感じることはなかったし、ケニアでしばしば体験したような身の危険もまったく感じなかった。このような状況が今後もずっと続くことと、ラッカ新博物館(図12)の実現を願うばかりである。

 最後に、今回の調査でお世話になった領域研究者の皆様とシリア側研究者の皆様に心よりの謝意を表したい。