表採遺物から見た各遺跡の時代 |
木内智康(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
計画研究「西アジア乾燥地帯への食料生産経済波及プロセスと集団形成」研究協力者
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筆者は2007年2月〜3月のビシュリ・サーヴェイに参加し遺物を実見する機会を得た。ここでは表採した遺物から判断できる各遺跡の大まかな時代について述べることにする。内容としては2007年3月25日のシンポジウムで述べたことを元にしているが、若干の変更も加えてある。本稿の目的は詳細な報告ではなく、多くの方々に各遺跡から表採された遺物とその時代に関する概要を知っていただくことにある。そのため、一部の写真のみを提示して概略を述べるにとどめる。また、同じ理由で時代判定の根拠とする参考文献等をその都度提示することはしないが、主な参考文献については本稿の最後に掲げておく。
このサーヴェイによって発見された遺跡は中期旧石器時代、青銅器時代、ローマ時代以降に大別される。その間の時代の遺跡が見つからなかったことは、おそらくサーヴェイの精度に関係すると思われる。具体的なサーヴェイの手法については長谷川氏の記述に譲るが、今後の調査によってさらに多くの遺跡が記録され、欠けている時代の遺跡もその中に含まれることになろう。幸いにして青銅器時代の遺跡は調査地域東部の一所に集中して発見されたので、西から順に紹介していきメインとなる青銅器時代の遺跡については最後に述べる。なお、表採された遺物の大部分は土器であり、口縁部や底部片、その他装飾を持つ土器片が主に採集された。各遺跡での表採の方法はランダムなもので、区画を分けて採集するようなシステマティックな手法は用いていない。
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最も顕著なのはLate Roman C Wareと呼ばれる一群の土器である(図1左上など)。その精緻な胎土と明赤褐色の色調、および器形は非常に特徴的であり、その名称の示すとおりローマ時代後期を示す良い指標となっている。
また、いわゆるBrittle Wareと呼ばれる一群の調理用土器もローマ時代以降にこの地域でよく見られる土器であり、表採された口縁部片はおそらくビザンツ時代の特徴を示している(図1左上から2段目)。
そのほかには彩文を持つ胴部片も採集された。これはビザンツ期から初期イスラム時代に見られる彩文と考えられる。このほかこの遺跡ではガラス製品も表採することができた(図1下、腕輪と容器片)。
以上からおおよそローマ時代後期から初期イスラム時代にかけた遺跡であると言えよう。
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図1 ラサーファ北遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
へルベット・アル・ハルール遺跡(Kherbet al-Halul) |
遺跡の各所でビザンツ瓦が散乱していたことから、ビザンツ期の居住があったことは間違いない。その他採集した土器片も大部分が同時期のものと見られる。
ラサーファ北遺跡でも述べたBrittle Wareがここでも見られる(図2右下など)。また、口縁上に同心円状の刻みを持つ土器(図2上段左から2つ目:この写真では視認できない)はビザンツ期から初期イスラム期の特徴の一つである。よってこの遺跡はビザンツ期から初期イスラム期の遺跡であろう。
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図2 ヘルベット・アル・ハルール遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
バラーイット・テル・ハンマーム遺跡(Barayt Tell
Hammam) |
遺跡上では土器片も少数ながら採集できたのだが、時代決定に足る特徴的な土器片は拾えなかった。この遺跡では石器が採集されている。ほぼ全てが中期旧石器時代の石器であると考えられる(図3) |
図3 バラーイット・テル・ハンマーム遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
GCHS C113遺跡(Site GCHS C113) |
最初にこの遺跡を遠望したとき、このテルの形状からして青銅器時代の遺跡ではないかと我々は期待した。しかし近づいていみると多くのビザンツ瓦(図4上)が散乱していた。土器についてもビザンツ期と考えられる、特徴的な稜を多数持つ土器片が採集できた(図4下中央)。このほか、おそらくローマ時代まで遡ると考えられる土器片(図4左下)も採集されている。 |
図4 GCHS C113遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
この遺跡で再びLate Roman C Wareが見られる(図5右)。
また、2点の口縁部片はおそらくビザンツ期に属すと考えられる。よって、この遺跡もおよそローマ時代後期からビザンツ期にかけての遺跡と言えよう。 |
図5 アル・フラ遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
貼付文を持つ口縁部片(図6左)はビザンツ期の土器である。また、把手の破片(図6中央)はBrittleWareであり、これらもおそらくビザンツ期のものであろう。そのほか、青釉のかかった陶片(図6右から2つ目)もある。これはイスラム期まで時代の下るものであろう。 |
図6 ビール・クレディ遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
アル・カブ・アッ・サギール遺跡(Al-Qabu al-Saghir) |
あまり多くの遺物は拾うことができなかった。しかし、採集した把手の一つはBrittle Ware(図7左)であり、ビザンツ期に属すと考えられる。また、このほかに写真には掲載していないが、時代不詳のタイルも見つかっている。 |
図7 アル・カブ・アッ・サギール遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
テル・ムヘイル遺跡(Tell Muheir)およびテル・ムヘイル東遺跡(Tell
Muheir East) |
これら2つの遺跡は1.5kmほど互いに離れて位置する別個の遺跡であるが、表採された遺物(図8、9)からはいずれも時代決定が困難であったため、ここでは併記することにした。ともにローマ時代以降という印象を受けるものの、決定的な証拠に欠ける。 |
図8 テル・ムヘイル遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
図9 テル・ムヘイル東遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
特徴的な土器としては、口縁部に指頭圧痕を持つ土器(図10上段中央)と刻文を持つ土器片(図10下段左から2つ目)。 いずれもイスラム期のものだろう。
また、緑釉陶器片(図10下段左から3つ目)も見られる。 これもイスラム期と考えてよいだろう。 |
図10 ナヒーラ遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
カラート・サフィン遺跡(Qala,t Safin) |
口縁部片はいずれもビザンツ期から初期イスラム期のものであろう。図11中央はBrittle Wareである。底部片(図11右)は青釉陶片で、ローマ/パルティア期に属す可能性がある。 |
図11 カラート・サフィン遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
図12 前三千年紀の編年表
(Anastasio et al. 2004 fig. 7を一部改変) |
ここから青銅器時代の遺跡に入るわけだが、その前に編年の問題に触れておきたい。本稿では前期青銅器(Early Bronze、以下EB)の編年を用いる。伝統的にユーフラテス川中流域ではEB編年を用いてきているからである。しかし以下で述べるテル・ガーネム・アル・アリ遺跡が位置する地域(ラッカから約50km東)にEB編年を用いるべきかどうかは今後調査が進展する中で検討していかなければならない問題であると筆者は考えている。もちろん、南メソポタミアの編年を用いることが妥当とも思われない。かつてマチエはシリア独自の編年としてシリア編年(Protosyrian、Old
Syrian、Middle Syrian)を提示した(Matthiae 1981)。
この編年体系はあまり普及することは無かったが、独自の編年体系ということでは近年プフェルツナー(Pfalzner and Dohmann- Pfalzner
2001)やルボー(Lebeau 2000)らによる初期ジャジラ(Early Jazirah)編年が提唱されている。当該地域はジャジラからはわずかに外れた位置にあり、ユーフラテス中流域という大枠にくくるのであればEB編年を用いることも誤りではないといえる。実際、ドイツ隊によるアブ・ハマド(Abu
Hamad)遺跡の調査ではEB編年を用いている
(Falb et al. 2005, Al-Khalaf and Meyer 1993/1994, http://web.uni-frankfurt.de/fb09/vorderasarch/abuhamed.htm)。
しかし、最近ではユーフラテス中流域の編年においても従来のEB編年の枠組みを用いない方向に向かっている。そもそもユーフラテス中流域にEB編年を適用する場合、トルコ方面とパレスチナ方面のいずれのEB編年を参照するのかという根本的な問題が生じる。
両者には若干の違いが存在しているのである。そうした中でEBを前中後期(Early、Middle、Late)に細分するウィルキンソンの編年(Wilkinson
2004)やPhase1から6までに細分するポーターによる編年(ポーターによる論考は未出版であるが、概要はCooper 2006において知ることができる)などが提示されており、今後ユーフラテス中流域に関してはこれらの編年枠のいずれかが主流となる可能性がある。
以上は相対編年の問題であったが、さらに編年問題を複雑にしているのが絶対年代の問題である。ご承知のように従来主流であった年代は中年代(Middle
Chronology)というもので、これはバビロンがヒッタイトの攻撃により崩落した暦年代を前1595年としたものである。しかし、近年ガッシェらが新年代を提示して以降(Gasche
et al. 1998)状況は極めて流動的となっているようである。今後の状況は不透明であるが、本稿では伝統的な中年代に拠ることにする。以上については図12にまとめてあるので参照していただきたい。
なお、こうした相対・絶対年代に関する問題は現在西アジアの前三千年紀を扱う研究者の間に共通した課題となっており、ARCANEというプロジェクト(http://www.arcane.uni-tuebingen.de/)においても主題の一つとして扱われているようだ。しかしここでは表採遺物から推測される各遺跡のおおよその年代を示すことが目的であるから、この問題にはこれ以上深入りしないことにして実際の遺物を示すことにしよう。
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テル・ハマディン遺跡(Tell Hammadin) |
少なくとも2つのテルからなる遺跡であり、今から考えればテルごとに表採を行うべきであった。結果的に2つの遺跡の遺物を混ぜて採取したことになる。しかし、全体としては前期青銅器時代の前半の枠内で考えることができると思われる。その判断材料となるのは、厚さ一定で断面逆L字状に張り出す口縁部(図13a)や、薄手で内湾する碗(図13b)などである。
また、写真では見えないが、一部の口縁部内面には一条の凹みがあり、これも前期青銅器時代前半に良く見られる特徴である。 |
図13 テル・ハマディン遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
テテル・ガーネム・アル・アリ遺跡(Tell Ghanem al-
Ali) |
ハマディンに比べると、ガーネム・アリ遺跡のほうが判断しやすい土器を拾うことができた。まず特徴的な器形として挙げられるのは、口縁部に数本の稜を持つ壺である。これらはEBIV期からEB-MB移行期にかけて非常によく見られるタイプである(図14a)。また、ほぼ同じ年代を示す土器としては、口縁部が肥厚するタイプ(図14b)も挙げることができる。このほか、彩文土器片も採集できた(図15)。これらは薄手の精製土器で、ユーフラテス彩文土器(Euphrates
Banded
Ware)またはユーフラテス精製土器(Euphrates Fine
Ware)と呼ばれる土器で、EBIII期を中心に見られる
土器である。また、写真には挙げていないが鎌刃と考えられる石刃も表採できた。それらは前三千年紀前葉まで遡る可能性がある。以上から、当遺跡は少なくとも前三千年紀半ばから前三千年紀末までの居住があったと考えられる。ただし、鎌刃の存在やEB-MB移行期の可能性がある土器片から判断すると前後にもう少し幅を持たせたほうがよいかもしれない。
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図14 テル・ガーネム・アル・アリ遺跡表採遺物その1
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi)
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図15 テル・ガーネム・アル・アリ遺跡表採遺物その2
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
図16 アブ・ハマド遺跡表採遺物
(By courtesy of Dr. Michel Al Maqdissi) |
既にドイツ隊によって調査されている。上述のように既に報告書が刊行されており、そのほか概報やホームページでも情報を得ることができる。そこではEBIII〜IVa期の墓地であったと報告されている。我々が採取した土器片の中には積極的にEBIV期を示す資料は乏しかったが、例えば写真に挙げたようにユーフラテス精製土器に含められる(つまりEBIII期ご
ろの)、らせん状磨研土器(Spiral Burnished Ware)の底部片(図16a)を採集することができた。このほか中期旧石器時代の石器も表採されている。
以上のように、今回のサーヴェイでは前期青銅器時代の包含層を持つと考えられる遺跡を見つけ出すことに成功した。テル・ハマディン遺跡とテル・ガーネム・アル・アリ遺跡については発掘可能の見通しとなり、後者は今夏に試掘調査することが決定している。そこで後者の遺跡に居住があったと考えられる、前期青銅器時代後半がどのような時代であったのかを述べることでまとめに代えたい。
ユーフラテス川を少しさかのぼったアサド湖地域で1960年代以降、さらに上流のティシュリン・ダム地域で1980年代以降に多くの緊急調査が行われた結果、この地域については多くのことが分かるようになってきた。そうして明らかになってきたことの一つは、前三千年紀中ごろに進展する都市化と前三千年紀末の都市崩壊である。前三千年紀中ごろ以降に拠点集落の規模が拡大して都市化が進行するのだが、そうした諸都市は前三千年紀末に崩壊する。しかし、完全に居住が無くなるわけではなく一部の集落は細々と存続し、前二千年紀初頭に再び複雑社会を形成し始める。前三千年紀末の都市崩壊の背景には広範囲に及ぶ環境の悪化があったとも言われている(Weiss
et al. 1993)が、否定的な見解もあり結論は出ていない。
ところで、都市社会の崩壊の理由が何であったにせよ、この崩壊を乗り越えることができた背景には、1)遊牧や狩猟を重視した多角的生業、2)各都市の自律性、3)部族社会などの存在があったことが指摘されている(Cooper上掲書 270ff)。これらの点は本プロジェクトにとって見逃せない点であろう。また、周辺でこれまでに調査された都市遺跡が存在しない(例外的に発掘されているアブ・ハマドは墓地遺跡である)という点も重要である。これまで調査空白地域であったこの地域での調査は必ずや青銅器時代の研究にとって多くの寄与をもたらすことであろう。夏以降の調査が非常に待ち遠しく感じられる次第である。
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- Falb, C., Krasnik, K., Meyer, J-W., und Vila, E. 2005
Gräer des 3. Jahrtausends v. Chr. Im syrischen
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- Gasche, H., Armstrong, J. A., Cole, S. W., and Gurzadyan,
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at Tell
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at Tell es-Sweyhat vol.1, OIP 124, Chicago, The Oriental Institute
of the University of Chicago.
この日本・シリア合同調査における青銅器時代の遺物はシリア側の担当となっている。そうした中で写真掲載を許可していただいたシリア考古庁のミシェール・マクディスィ博士のご好意に謝意を表したい。また、筆者は元々は本調査のメンバーに入っていなかった。今回参加することができたのは、指導教官である西秋良宏先生から代理での参加を命じられるという幸運によるものであった。先生には普段よりご指導いただいているばかりでなくこのような機会を与えていただいたことに改めて感謝申し上げたい。なお、遺物の時代決定は筆者にとって、率直に言ってかなり困難な作業であった。以下の方々にご助言を賜り、また資料コピー等の便宜を図っていただくことによってかろう
じてシンポジウムでの発表に漕ぎ着けたというのが実状であった:足立拓朗先生、大沼克彦先生、小泉龍人先生、下釜和也氏、シャーケル・アル・シュビブ氏、常木晃先生、沼本宏俊先生(五十音順)。この場を借りて感謝申し上げる次第である。 |
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