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調査最新情報
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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 NewsletterNo.5(2007年1月号)より
印章と都市化の関係
石田恵子(古代オリエント博物館)
計画研究「西アジアにおける都市化過程の研究」研究分担者
現在の印章とは
現在のカード化の進んだ社会でも、印章は印鑑やハンコと呼ばれ、われわれの生活にはまだ不可欠な存在である。我々一般庶民ですら複数の印鑑を持って、銀行によって使い分けたりする。契約書では必ず印鑑が求められ、住宅など高額な買い物や借金をする場合には役所に届け出た実印の使用が求められる。以上のような事実から推測されるように、印章はお金、つまり財産と密接な関わりがある。大きな権限を持つ者ほど立派な印章を持ち、日々の暮らしもおぼつかない人々には印章は無縁なものであった。日本での印章は中国伝来の文字を彫った印章であり、朱肉などをつけて紙に捺す印章である。
財産とは
古代において財産とは何であろうか。旧石器時代では毎日獲物を探して暮らし、獲物がとれれば食べられる、獲物のない日は食べ物にありつけないという生活であったことだろう。そのときの財産といえば、干し肉や木の実などの保存のきく食べ物や獲った動物の毛皮、革、牙や角、必需品としての石器や石材、装身具としての貝や石などであったと思われる。
やがて農耕・牧畜が始まった新石器時代になると、保存のきく穀物も財産となり、物々交換で彼らの欲しい特別な物も手に入れた。そのような威信材の一例として黒曜石があり、黒曜石からは石器はもちろん鏡やビーズまで作られ、美しくかつ実用的な石器材料として珍重された。また石器として一般的なフリントもどこにでもあるわけではなかった。加工品としての石器自体が商品として流通していたこともおおいに考えられる。
アラバスターや大理石、水晶やメノウ、ラピスラズリなどの美しい石材は、石製容器やビーズなどに加工され、原料はたいてい西アジアの外から輸入しなければならなかった。原料自体も加工品も商品となった。流通の問題は文明と大きく関わってくる。
流通
物資の流通は商業の始まりでもある。通常、行商人の存在を想定しがちである。原産地の誰か、あるいは誰かが原産地に仕入れに行って産物を売り歩く。あるいは、隣接する地域同士が交換を繰り返して行くと、結果として遠距離を物資が運ばれる可能性はある。物々交換であったはずだが、交換レートは当時の価値次第であった。つまり、需要と供給の関係であるのは今と変わらないはずである。古代における流通や交換の実態がどうだったのかは不明であるが、実際に黒曜石など産地の同定できる資料については広い流通範囲がすでに研究されており、交通手段が進んでいない先史時代から意外なほど遠方に物資が運ばれる事実が判明している。そのためには徒歩以外の運搬方法も発達していったことだろう。
交通
流通には運ぶ手段として、人(手に提げたり、背負うなどして徒歩)、駄獣(ロバ、オナジャー、牛、馬、駱駝など)の背に乗せ(騎乗した)人が誘導する、さらにソリや車両が発明されると駄獣の引く車両で運ぶ、舟で川や海を運ぶ(大型品や重量物の輸送や大量輸送に適していた)方法などがある。テラコッタ製品などに車両の造形もあるが、その実態を明らかにすることはなかなか難しい。文献記録が残る時代には搬送を生業とする者もいたはずで、その情報を集めることはできるはずである。例えばイラク南部のウル遺跡はユーフラテス川のそばにあって、都市の周囲をめぐる運河を川から引いていた。運河は防御、農業と水運に役立つ施設であった。
旧石器時代の家産経済
一家族のみで生活している場合の経済には複雑な問題はなかったと思われる。物資の過不足は家族全員の問題であったからである。数家族から成る共同体の経済である場合は事情が違ってくる。数家族の中での家族間のランク付けや獲物獲得への関与の仕方などから、獲物などの分配の仕方に差が生じたりしたかもしれない。おそらくこの場合の数家族は血縁と推定されるので、家族の情があれば破綻をきたすことは少なく、まとめやすかったことだろう。旧石器時代の場合はこのような血縁集団が基本となって移動していたと想定される。
村の成立と新石器時代の家産経済
一方、農耕・牧畜の始まった新石器時代には、いくつもの血縁集団を核とする地縁集団が増幅していってムラを作っていったと想定される。村の中では村長や村役のようなまとめる立場の人々も出来、村の収穫物などの共有財産を管理する役も発生していった。物々交換や交易による売買が行われた段階で新石器時代の印章が登場したと思われる。封印の採用は共同体内部の人々をも信用できなくなったというより、共同体の財産を管理し、物資の再配分をすべて管理していこうとするシステムの成立と見るべきであろう。私有財産がいつ頃から存在したのかは大変難しい問題であるが、文字記録のない時代には証明の方法がない。捺すだけのスタンプ印章で、最初は石に彫るという技術的な問題からも幾何学文であったが、メノウのような非常に堅い石に繊細な幾何学文も登場している。
印章の出現
シリアの新石器時代のテル・エル・ケルク遺跡からは、数種類ものスタンプ印章が登場しており、それもさまざまな形状や図柄のスタンプ印章が出土している。すでにいろいろな目的で使い分けられていたことが推測される。テル・エル・ケルクの場合は発掘者の常木晃氏は都市の萌芽であるとみなしている。その主張点は遺跡の大きさや、80本以上の石刃の一括出土を共同体が使うための社会的貯蔵と呼び、石器製作における素材や技術の選択に見られる専門性や、50点以上出土したスタンプ印章や封泥をはじめ、物資の保存をも考慮した住居構造などすでにかなり進んだ段階の農村と見ている。
封泥
印章の使用の最初の段階は粘土に捺す封印であった。壷の口やカゴや包みなどの荷にかけた紐の結び目をおおう粘土に印章を捺せば印影が残り、印影が封泥に残る限り中身の無事が証明された。封泥は焼成されないため遺跡で残存することは稀であったが、火事などに遭うと封泥は焼かれて遺跡で発見されることになる。残された物にはエル・コウム遺跡出土品のように印章がすきまなく押された石膏板もある。この孔のあいた石膏板は封印の用途ではなさそうであるが何らかの役割を果たしていたはずである。
粘土を使用しての封印は印章の基本機能としてその後も長く続いて行く。封泥に捺された印影は封をした人、生産者、管理部局、封の内容物などを示すと考えられる。商品が封泥付きで動いた可能性もあり、新石器時代の封泥で粘土の成分分析も進められつつある。つまり、遺跡で出土した印章は印章を所有して捺す人がその遺跡にいたと考えられるが、封泥の場合は必ずしもその遺跡で封をされたとは限らない。物資の流通を証言する封泥はその遺跡の交易範囲の証言者となりうる。
トークンによる経済管理
また新石器時代からウルク時代までの遺跡からは、小さな粘土製のさまざまな形状の物が出土しており、トークンと呼ばれている。シュマン・ベッセラの研究によれば16類492種のトークンがある。ベッセラはこれらを文字以前に物資の名と数に対応させて経済管理をしていたと考えた。売買や貸し借りの際に数量をメモするために粘土でその形の駒を作っていたのではないかと。一部には何とのちの絵文字と一致する形状の物もあり、トークンから絵文字が発生したというのはなかなか魅力的な説である。しかし、すべてが一致する訳ではないため、文字の成立にトークンも関与したと言うことができよう。絵文字から楔形文字への段階でも文字数はかなり整理されていったという。それ以前の広い地域や時代にわたる地方的な符牒がトークンであったのではなかろうか。
スタンプ印章の図柄
このように最初の印章であるスタンプ印章はその後、幾何学文様から動物文様などのモチーフに発展しつつ用途を広げて行ったと考えられる。モチーフ自体の意味も加わっていって、角のある動物の力や魔除けになりそうな怪人や怪物も登場するなど、封泥があることはすなわち中身が無事、つまり盗難から守られたことを意味し、印章に魔除け的な意味が加わって行った。このように印章は封泥に捺印するという役割で発展して行った。さまざまな形状、図柄のスタンプ印章があったが、北シリアでは円筒印章一周分と同じくらいの印面の巨大なスタンプ印章まで登場した。
円筒印章の登場
ようやくここで、ウルク期の円筒印章の登場を待つことになる。円筒印章の登場に関しては石製容器を作った時にくりぬいた芯から作ったのではという説もあるが、なかなかその実態は明らかではない。円筒印章になってからの大きな変化は印面がエンドレスになったということである。
曲面にも捺すことができ、隙間なく捺すには都合が良かった。スタンプ印章にも必ずあった紐通し孔が円筒形の中心軸を通るようになり、装身具にもできるほど携帯しやすくなった。時代が下がるほど美しい石材でも作られ、宝飾品に近くなっていった。画面を回しながらでないと見渡せないため、彫る図柄の割り付けが難しく、また円筒の表面を固定しながら彫るには高度な技術が必要とされたことだろう。当然訓練された印章職人が携わっていた。のちには楔型文字が銘文として彫られる場合もあり、文字は捺した印影で読めるように裏返しに彫られた。宮廷工房では当然いたはずであるが、印章工房には文字のわかる書記が必ず関与していたと思われる。
最初の円筒印章の登場
円筒印章の初現は、粘土封球(クレイボール)や数量粘土板文書に捺された印影としてであった。粘土封球はトークンを入れた中空のボール状の粘土で、手でつかめる大きさで厚手に割れにくく作られている。トークンを入れて内容物を単に保管するのみならず、トークンを入れたまま出荷証明のように運ばれたと推測される。荷受け人が受け取った商品と粘土封球の中身を見比べてチェックできるシステムと思われる。トークンを入れて発送した人間や場所などをあらわす円筒印章が表面に捺されている。粘土封球の場合は円筒印章を捺された上にトークンを押し付けてあり、中を割らなくても中身のチェックが出来るようになっている例もある。流通における記録や保管の最初の工夫であった。印章が捺された上に押し付けたトークンなどを書き換えようとすると、粘土を水で湿らせれば出来なくはないが、最初に捺した印章の印影まで消えてしまうため、書き変えは無理であった。すぐれたアイデアであった。
粘土板文書の登場
また、数量粘土板については粘土板文書の初現であり、数量を記す前に円筒印章の特性を生かして表面全面に捺し転がし、そこに数字を刻んでいる。しばらくして粘土板が乾燥すれば、刻んだ数量は記録に残った。これも書き変えようとして湿らせると印影も消えるという理由により書き変えられなかった。この数量は売買や貸し借り、奉納などの記録であったと思われる。粘土封球も数量粘土板文書もほぼ同時期に存在したが、こちらは経済文書の初現と言える。ただし、これらに捺した円筒印章自体はほとんど見つかっていない。彫りの深い伸びやかな図柄が多かったが、素材が木のような残存しない物であったと考えられている。まだ文字がない時代に円筒印章を利用して、捺印後に記号を刻めば後で書き変えられないシステムを利用した文書を生みだしたのである。粘土の板に書いて乾けば記録として残るシステムは古代オリエントの文書として、その後圧倒的な一時代を画することになる。
古代オリエントではこのような経済記録の必要から印章が生まれ、文字が考案されていった(図1)。最初は絵文字、そして楔形文字へと発展し、粘土に文字を記すことで単に経済記録のみならず知恵の蓄積も行われて行ったのである。粘土板文書には今日の署名のように印章を捺すようになり、売買や貸借の当事者や証人として捺すことが行われた。訴訟において必要なメンバーが捺印しており、当事者同士よりも証人の証言の方が効力はあったようである。また、時代によっては文書が封筒に入れられて封筒上に円筒印章が見事に転がされた例もある。予め粘土板文書に印章を全面に転がさずに文字を書くようになったため、ハムラビ法典にあるように水で湿らせて書き変えてはならない、などとの条文が作られている。そうやって書き変える輩がいたのであろう。封筒は中身の文書に手を加えられないための工夫で、表に印章が転がされているのは、誰の証書かが判別しやすいためであったろう。ウル第3王朝時代には粘土板文書に書き記した後、円筒印章を全面に捺した例があり、解読者が困るほどであった。これも書き変え防止のためであったのだろう。
図1 印章の変遷
円筒印章の図柄
このようなきわめて実利的で事務的な経済システムに印章は常に関わってきた。印章の図柄には当然闘争文や謁見図など図柄の意味もあったが、図柄には時代や地域ごとのグループがあり、○○様式などと呼ばれてきている。ある様式の分布範囲は共通の価値観をもつ領域であり、ある国や勢力の支配下にあるともいえよう。ただ、同じ地域、時代で似たモチーフの印章ばかりを何のために使ったのかが別の疑問点として浮かんでくる。また、同じ時代や地域でも数種類の図柄がある場合もあり、個々の出土例から遺跡ごとのケース・スタディを行う必要がある。
印章も素材によっては朽ち果てて出土しないが、基本的に印章自体はその遺跡で使用したもので、粘土板文書もその遺跡に当事者がおり保管されたと思われる。封泥は運ばれてきた可能性があり、遺跡に固有の物とは限らないことを念頭におく必要がある。ただし、封泥はどの遺跡でも容器の蓋として必要なものであり、サビ・アビヤドで判明したように捺印されない封泥もあった。
歴史時代の都市
都市とは行政と財政とを管轄し、複雑な経済システムを持つ。そのためには粘土板文書が記録として使われる必要がある。そして印章が多種類あるいは量的に多く使用される必要がある。封泥も条件が整えば大量に出土したはずであるが、条件が揃うことは少なかった。
さらに粘土板文書からは誰がどのような役割で捺印しているかでより詳細な情報を得ることが出来る。公印と私印の区別があり、公印にはレターヘッドのように捺された王家の印章もある。個人間の契約書も契約者すべてが捺印するわけではなく、また複数の証人が捺している事実もあって訴訟に関する情報も入手することが出来る。
歴史時代の農村
歴史時代に入って中心的な都市はもちろんあったが、都市の周辺には衛生都市や町、農産物を供給する村などがあったことだろう。印章を多用していたかもしれないが、果たして常に農業や牧畜に従事する人々まで文書に記録保存していただろうか。私がかつて発掘に参加したユーフラテス川沿いの中期青銅器時代から初期鉄器時代のテル・ルメイラの例をあげると、発掘面積の問題もあるが円筒印章が一点のみ出土した。粘土板文書も印影付きの封泥もなく、スタンプ印章の姿もなかった。一方、地中海寄りの同じく初期鉄器時代のテル・マストゥーマの発掘では、円筒印章2点にスタンプ印章が多数出土した。
テル・ルメイラは地味な農村と考えられ、村に果たして書記がいただろうかと思えるほどである。地中海寄りのテル・マストゥーマの方がオリーブやぶどう酒などの商品作物を生産していたと思われ、経済活動は活発であったと推定される。
都市と印章
このように印章には新石器時代からの長い歴史があるが「封印」を基本概念として経済システムの実際的なプロセスに関与してきた。また、公印、王印として政治的な文書に効力を与え、真正であるとの証明ともなっている。公印・役職印を所有する者は、中国の官位制度や朝貢関係に伴う「印綬を賜う」という権威を象徴する概念に通じ、印章の重みは古今東西に共通するものである。
円筒印章以後
粘土板文書に楔形文字が書かれなくなり、羊皮紙などに筆で書かれるようになると再びスタンプ印章が封泥に使われるようになり、指輪形印章が使われるようになっていった。旧約聖書においては、身分を証明するもの、権威を示すもの、美しい石に大切な語句が「刻印されたもの」、いつも身につける大切な物、そして封印するものとして登場する。粘土板文書に捺されなくなって以後、小さな封泥に捺される形でしか印影は目にされなくなり、「捺す」というより指輪自体が権威を表す物となって行ったと思われる。このように、時代により印章は多様な役割を演じながら西アジアから広がっていった。
都市化過程の研究
新石器時代の段階から「都市」的な遺跡もあれば、歴史時代における「都市」はその地域の核となる中心地にあり、「都市」的ではない集落も多かったと思われる。「西アジアにおける都市化過程の研究」において、文献学との共同作業により、地域や時代による「都市」概念の発展に新たな成果が生まれることを期待している。
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