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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.1 (2005年9月号)より
オアシス都市パルミラにおけるビシュリ山系セム系部族文化の基層構造と再編 
研究代表者 宮下佐江子(古代オリエント博物館研究部研究員)
 本研究は、紀元後1-3世紀のオアシス都市パルミラの基層構造であるそれまでのセム系社会の文化が地中海世界や東方文化と出会うことによって、どのように変容したかあるいは再編していったかを明らかにしようとするものである。

 パルミラは紀元前1800年頃のマリ文書にその古代名タドモールを記しているように、ビシュリ山系の地にあって、永くセム系社会の一員としてその歴史を育んできたが、ヘレニズム以降においてはその様相を大きく転換するにいたった。

 すなわち、アレクサンダーによる西アジア侵攻に伴って、多数のギリシア人が移住し、このシリア砂漠のオアシスも「タドモール」という名前からナツメヤシの町を意味するギリシア風の「パルミラ」に変わった。
そして、その地理的特性と豊富な水資源を生かして、盛んになりつつあった東西交渉の要の都市へと発展したのだ。東西に行き交う隊商への物資の調達、出入りの商品への関税、隊商の護衛隊組織の設立などによって生み出された富は町の公共建築の整備や裕福な階層の豪華な墓の建造をもたらした。漢代の絹製品が塔墓から出土しているが、流入する商品は広範囲におよび、それらが都市形成の段階で影響を及ぼしていることも推測される。

 これらをふまえて、周辺の同時代遺跡との比較研究をおこないながら、その時代に出現したパルミラ美術における地中海的性格、あるいは東方的様相を読み解き、それらと基層文化の交感がいかなる展開をみせたかを探ろうとするものである。
これまではパルミラの美術作品に関する研究は主に地中海世界との関連について言及されてきた。しかし、本研究はビシュリ山系のパルミラという観点から基層構造であるセム系社会の文化の反映を明らかにしようとするものであり、さらに東方への影響ではなく、東方からの影響をも探ろうとする点において、従来とは全く異なる視点による研究である。このような研究方法によってパルミラ美術はいわゆる西洋的位置づけではない、新しい視座を獲得できるだろう。
 それは現代における中東=イスラームという一般的理解に疑念と斬新な解答を提示できるものでもあろう。

ベル神殿の長押の葡萄唐草文 パルミラ西北墓域「三兄弟の墓」天井画