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文部科学省科学研究費補助金 「特定領域研究」 Newsletter No.5(2007年1月号)より
銅石器時代土器の調査記 −ユーフラテス川水系の技術拡散−
小泉龍人(早稲田大学非常勤講師)
計画研究「北メソポタミアにおけるアッシリア文明の総合的研究」研究分担者
資料調査の目的
 平成18年3月、筆者は銅石器時代におけるユーフラテス川水系の土器資料を観察調査する目的で、イギリスのケンブリッジ大学およびマンチェスター大学へ出向いた。

 筆者が日頃おもに研究しているのは、北シリアからメソポタミア、さらには南西イラン地方にかけて広範に分布するウバイド土器である。この土器を指標とするウバイド文化は、西アジアにおける新石器時代の農耕牧畜社会が複雑化していき、やがて古代都市へと華開く過渡期に位置している。まさにウバイド土器は、集落が都市へと飛翔する過程を考古学的に捉えるのに最適な資料となっている。

図1 主な遺跡分布図
 かつて筆者は、北シリアのユーフラテス上流域に位置するテル・コサック・シャマリ遺跡の発掘調査に参加した(図1)。同遺跡の調査では、ウバイド期からウルク期にかけての良好な居住堆積が確認されている。銅石器時代の土器を担当する筆者は、床面や床面直上など有意なコンテクストで検出された豊富な土器資料を整理しながら、ユーフラテス川上流域における紀元前5〜4千年紀のウバイド・ウルク土器編年の構築を目指して研究している。現在、本遺跡の発掘調査成果を報告書にまとめるべく整理作業を継続中である。

 報告書作成のために、ユーフラテス川上流域周辺の諸水系で出土した類似資料との比較検討が欠かせない。北シリアのバリーフ川やハブール川だけでなく、中部イラクのユーフラテス川中流域も対象とする必要がある。とくに、イラクのラス・アル・アミヤ遺跡は、ユーフラテス水系を動線とするイラク方面からシリア方面への文化拡散を捉える上で重要な位置を占めている。時期的には、南方に誕生したウバイド文化が北方へ拡散し始める頃、すなわちハラフ終末期からウバイド前期初頭に相当する。

  ラス・アル・アミヤは、1960年にイギリスのデイヴィッド・ストロナッハ博士によって緊急発掘された。まず筆者は、ストロナッハ博士(カリフォルニア大学)に「遺物をどうしても観察したい」とメールで伝えたところ、すぐに返信を頂戴した。残念なことに、彼が調査したときには遺物のディビジョン(分割貸与)がされておらず、現在イラク国内のどこの博物館に出土資料が保管されているかも分からない、との返事だった。しかも、イラクは現在戦争中のために、発掘資料を手に取って悠長に観察することは叶わず、入国すらできない状態が続いている。

  なかば諦めかけていたものの、資料調査そのものを断念するのは口惜しい。そこで、イラク調査の歴史の長いシカゴ大学東洋文化研究所で関連資料を見せてもらうか、それともイギリスのハラフ・ウバイドの研究者に個別に会いに行こうか悩んでいた。当初、筑波大の常木晃先生や東海大の山花京子先生からいろいろとアドヴァイスを頂戴して、かなりシカゴ行きをイメージしていた。そこへ、国士舘大学の松本健先生や小口裕通先生から思わぬ助言をいただいた。「ジョアンのところに行った方がいい。聞くなら今しかない」。

 イギリスのジョアン・オーツ博士は、長年に渡ってイラク、イラン、シリアで考古学調査を継続してきたウバイド研究の大御所であり、1960年に雑誌Iraqで発表した“Ur and Eridu, the Prehistory”はウバイド土器編年の出発点となっている。現在のウバイド土器研究は、理化学的分析や社会構造的な考察といったアプローチに関心が高まってきているが、すべての議論はこのオーツ編年を叩き台としている。

 幸いにも、ジョアンと連絡が取れて、なんと彼女が個人的に管理している研究資料のなかにラス・アル・アミヤ出土品もあることが分かった!この機会を活かさぬ手はない。即、イギリスで資料調査を実施することに決める。オーツ博士が管理しているイラク出土のウバイド土器をじっくりと観察し、彼女しか知り得ない貴重な情報や見識を拝聴することも狙いとした。彼女のもとに留学していた大阪学院短期大学の渡辺千香子先生からさまざまなアドヴァイスを頂戴して出発に備える。


ケンブリッジにて
 3月初旬、ロンドンから特急列車でケンブリッジへ。暦の上では春になったとはいえ、駅に降り立つと風はまだ冷たく、厚手のコートを着てきてほっとする。翌朝、フル・イングリッシュ・ブレークファーストで腹ごしらえをして、ケンブリッジ大学へ。道は一本なのに名前がころころ変わり、ヒルズ・ロード、リージェント・ストリート、セント・アンドリュース・ストリートとなったあたりで左折して、目指すダーウィン・カレッジ構内に入る。建物を囲む敷地の広さ、とくに芝の多さに驚く。

図2 マクドナルド研究所
 マグドナルド研究所に着くと、ジョアンはまだ来ていないとのこと(図2)。グランド・フロアーのティー・ルームで待たせてもらうことにする。待っている間、何組かのスタッフが降りてきて、挨拶代わりに議論をかわしている(戦わしている?)様を目の当りにして、だんだん心細くなる。いきなり鋭い質問攻めに遭って、貝になってしまわないだろうか...

 しばらくして、真っ赤なコートに包まれたジョアンが到着。8年前のシンポジウムで会って以来 となるが、どうやらこちらのことは認識してくれていたらしい。差し詰め、ウバイド土器にかじりついている変な東洋人、といった印象なのだろう。「東京からだと大変な長旅ね」「旅は嫌いじ ゃありませんから」。たわいのない会話でケンブリッジでの資料調査は始まった。

 研究所2階にはジョアンが長年手がけてきたテル・ブラク発掘調査団の研究室「テル・ブラク・ルーム」がある。ブラク遺跡は、1937年にマックス・マロワンが発掘に着手し、1976年以降もイギリス隊が調査を継続してきている。同遺跡はウバイド文化の北方拡散における拠点集落であり、後続のウルク・エクスパンションでもネットワークの要として機能していた。

 「テル・ブラク・ルーム」は10畳程度の小部屋で、中央に作業机、窓側に机やトレース台がならび、至る所に土器の入った箱が積み上げられていた。ありがちな光景に妙に安堵感をおぼえ、さっきまでの心細さも薄れてくる。

  途端に、彼女が土器の入った箱を次から次へと作業机の上に並べ始める。事前に何を調べたいのかを伝えてあったので、どうやら用意してくれていたらしい。ここでも日本の先生方のアドヴァイスが十二分に活かされた。ラス・アル・アミヤ、テル・アバダといったイラク中部の目指す土器資料と対面することが叶う!日本では、こうした遺跡の発掘資料を見ることがまったくできなかったので、まさに一点一点かじりつきながら慎重に観察を行った。

 観察所見として、これら中部イラクのウバイド土器は、北イラク(ティグリス水系)から北東シリア(ハブール水系・バリーフ水系)にかけてのウバイド土器とは異なる様相を呈していた。最も際立つ点は胎土の含有物である。中部イラク地域の資料はいずれも砂粒を主体とする、とてもきめの細かい素地を特徴としている。他方、北イラクから北東シリアにかけての類似資料は、スサ(切り藁)を混ぜた胎土が一般的である。むしろ、中部イラクの資料は、北シリアのユーフラテス川上流域のウバイド土器に近い。後者はスサを含まず、きめの細かい石灰粒を主体としている。

 つまり、胎土にスサを混入しないという点において、ユーフラテス川水系を軸とした中部イラクと北シリアとのつながりが浮かび上がってくるのだ。また、一部の土器の裏面において、両地域に共通する特異な調整痕も観察することができたのは、予想外の収穫であった。

 ジョアン自身は、近々はじまるブラクの発掘調査の準備で多忙をきわめていた。聞いた所では、調査資金の調達にとても苦労していて、イギリスから大金をシリアに持ち出すこと自体が非常にやっかいな事態(ローンダリング疑惑をかけられる?)になってしまうらしい。そこへ今朝、ワシントンから電話があり、助成金をもらえる目処がついたという。こんな慌ただしい時期に飛び込んで来てしまい、何ともタイミングが悪かった。にもかかわらず、好意的に資料の実見を許してくれた彼女には、唯々感謝である。

  結局、まるまる2日間、テル・ブラク・ルームにこもって土器資料を舐めるように観察することができた。これまで、こつこつとウバイド土器の製作技術的な特徴を観察してきた自身の見解をより強固にすることができ、とても充実した資料調査となった。なによりも、中部〜南部イラクの発掘資料品(表採資料品ではなく)を直に触って調べられたことが大きい。

  資料観察に没頭しながらも、ときおり交わす雑談は息抜きになった。彼女は、機器の扱いをあまり得意としない旧世代の人間らしく、講演会資料をパワーポイントで準備しているときには、たまらず私に使い方を尋ねてきたりした。また、日本から持参したデジタル一眼レフを使っていると、とても羨ましがられたりもした。別れ際、写真を撮らせて欲しいと申し出ると、昔イラクで彼女が出会った妙に写真好きの日本人女性の話しを聞かされてしまい(釘を刺された?)、ジョアンとのツー・ショットはあきらめる。

  自分はもともと食いしん坊であり、旅先では必ず地元の名物料理を食べることを常にしている。今回は、イングランドの美味しいパイ料理に出会えることを秘かな楽しみにしていた。定石どおり滞在していたホテルの主人から、いくつかの店を推薦してもらった。ただ、これまでの経験から、美味い店の情報は複数から聞き出すに限る。味の好みは人によってばらばらだからだ。

 
図3 パブ・イーグル
別れ際、ジョアンにキドニー・パイのお勧めの店はないかと尋ねたところ、さっそく同じフロアーの同僚たちに聞き回って一軒のパブを教えてくれた。このパブ「イーグル」で、半世紀ほど昔に大学院生たちが「DNAの構造を見つけたぞ!」と叫んだそうだ(図3)。そんな歴史のある店ならぜひ行ってみたいと思い、店をたずねる。だが残念にも、店員から「パイはランチ・タイムのときだけ」 と言われて、あっけなく挫折。結局、ホテルの主人から紹介されていた店でステーキ・パイをつつく。


マンチェスターにて
図4 マンチェスター大学
 ケンブリッジを後にして、次なる目的地マンチェスターへ向かう。ちょうどイングランドの南東から北西へ横断する格好になる。もちろん直行の列車などなく、2回乗り継いで4時間ほどで到着した。

 マンチェスターでは、スチュアート・キャンベル博士に面会することにしていた。スチュアートはハラフ文化研究の大家で、とくにハラフ終末からウバイド初頭にかけての情報はだれよりも多く持っている研究者である。ハラフ文化がウバイド文化にどのように継承されていったのか、土器の視点からいろいろ尋ねるつもりでいた。出国前に、彼のところで学んでいる前田修氏にいろいろ便宜を計ってもらう。
 
 マンチェスター大学は8年ぶりとなる。前回、アッシュボーン・ホールで開かれた「ウルク・シンポジウム」に参加したときは、中心部から離れていたせいもあり、構内の様子はつかめなかった。今回、改めてマン大のキャンパスを見渡すと、まるで日本のT大学に来たかのような雰囲気に包まれる(図4)。区画整備された広い構内、コンクリートむき出しの建物、まばらな人々。研究に没頭するには格好の環境だろう。WEB上からダウンロードした地図を頼りにスチュアートの研究室へ。

 彼の研究室の灯は消えており、近くのロビーでしばらく待つ。間もなくすると、髭面長身のスチュアートが現れる。「ウルク・シンポジウム」で会ったときとは違って、本人はかなりリラックスした感じであった。今回の来訪目的などを説明しているうちに、前田氏もやってくる。3人そろったところで「ドムズ・テペ・ルーム」へ案内される。

 ドムズ・テペは東南トルコのジェイハン川流域に位置し、紀元前1千年紀頃の城塞遺跡の一部として1946年に発見されていた。1994年にカリフォルニア大学のエリザベス・カーター博士により踏査され、翌年からカリフォルニア大とマンチェスター大との合同調査が継続されてきている。スチュアートはマン大側のトップである。紀元前6〜5千年紀のハラフ併行期の居住堆積が確認されている。

  「ドムズ・テペ・ルーム」は、上述のブラク・ルームよりもこじんまりとした作業部屋で、前田氏ともう1人(黒曜石の研究者)が共同で使っていた。スチュアートがドムズ・テペで出土した典型的な土器資料を袋から取り出して説明をしてくれる。この遺跡は層位解釈が複雑なため、理解するのに時間を要した。ランチの合間に、持参してきたiBookを使って簡単なプレゼンを行う。ウバイド土器とハラフ土器に典型的な器面調整の相違点や、ウバイド土器の製作技術上の定義について拙い説明を試みる。

  昼食後、ドムズ・テペ・ルームに戻り、ドムズ・テペのウバイド系土器を一通りチェックする。観察所見としては、北シリアのユーフラテス水系のウバイド前期の土器に特徴的な胎土や器面調整を確認することができた。ドムズ・テペの位置するジェイハン水系はユーフラテス水系に近接しているため、こうした類似性は十分に予想できていた。ドムズ・テペのウバイド土器もしくはウバイド系土器は、北東シリアのハブール水系や北イラクのティグリス水系のものとは異なり、近隣のユーフラテス水系の土器と類似した傾向を示している。

 同時に、ハラフ終末期にウバイド土器が北シリアに普及していく過程で、いわゆる「赤色土器」が大きな鍵を握っていたのだが、この土器様式が東南アナトリアでも展開していたことも確かめることができた。たいていこの赤色土器は粗めの砂粒が胎土に含まれており、この点においても北シリアのユーフラテス上流域と南東アナトリアのジェイハン流域とのつながりは濃いようだ。やはり、水系単位の地域的文化(筆者は地域圏と称している)が物質文化の広がりを考察するときの大きな手がかりになることを改めて実感した。

 夜9時過ぎまでドムズ・テペ・ルームで粘り、前田氏の勧めでインド・カレー街へ繰出すことにした。彼の話だと、夜さんざん飲んだ後に、カレーでしめるのが今どきのマンチェスター流らしい。日本だとラーメンや蕎麦あたりが相場なのに、翌日に胃もたれしてしまわないのだろうか... そんな心配をよそに、われわれが11時過ぎに店を出たときでも、腹を空かした何組ものグループとすれ違った。

図5 ロッチデール運河
  翌日、前田氏に街中を案内してもらう。まずはマン大の博物館に向かう。エジプトのテル・アル・アマルナ遺跡の資料が目立って多かった。海外の博物館を観ていつもながら感じることだが、余裕のある展示スペースは羨ましい限りである。休日ということもあり家族連れが目立つ。そして、マン大構内を抜けて旧市街へ出る。ロッチデール運河に沿って赤レンガ建物や煙突が残っており、往時の大英帝国の繁栄が偲ばれる(図5)。

 マンチェスター新市街のシンボル的なタウン・ホールに寄って、マンチェスター大聖堂へ。ロンドンやケンブリッジと違って、この街で邦人を見かけることはまずなかったのに、ガイドにはちゃんと日本語版が用意されていた。雰囲気のあるステンドグラスは、第二次大戦中にドイツ軍の空襲で破壊された後に作られたらしい。

資料調査の成果
 計2週間ほどの短い調査旅行ではあったものの、内容はとても濃く、得るものも大きかった。報告書を読むだけでは伝わってこない研究者の本音を聴く貴重な経験となった。今回の観察調査の最大の成果は、中部〜南イラク、北シリア、南東トルコにまたがる広範な地域に、類似した物質文化がユーフラテス川水系を軸として展開していたという筆者の見解を土器資料で再確認することができたという点である。

 古今を問わず、河川は生活の軸線である。ユーフラテス川は、今も昔もメソポタミアの人々の暮らしにおいて不可欠の場を提供してくれている(図6)。
図6 ユーフラテス川(ディル・エッ・ゾール付近)
とりわけ日常生活に欠かせぬ土器の製作技法で、地域を横断した広範囲な共通性を確かめることがてきたのは意味深い。工芸品の製作技術という視点に立ったこのような見通しは、都市化の進行する時期におけるユーフラテス水系を軸にした地域的文化の拡散を考える上で大きなヒントになり、今後のビシュリ山系の調査においても少なからず応用できそうだ。

  今回の資料調査では、ジョアン・オーツ博士ならびにスチュアート・キャンベル博士のご好意によって、それぞれが管理する貴重な土器資料を観察することが実現した。お二人以外の方々からもさまざまな便宜を頂戴した。ここに記して感謝申し上げたい。