「<シュメール文字>文明」は、「漢字文明(圏)」、「漢字文化」に触発されて、わたしが作りだした語である。それは広義には、シュメール人が発明した粘土板
文字記録システムによって支えられたメソポタミア文明全般を指示するが、より狭義には、もっともはやくて前4千年紀末、おそくても3千年紀中葉までにかけてメソポタミア、シリア各地で成立し、前2千年紀のはじめまで繁栄をつづけた都市(国家)群の文明装置をさす。われわれの計画研究「<シュメール文字>文明の成立と展開」では、この語は、後者の意味で用いられている。そしてこの「<シュメール文字>文明」の推移を象徴的に示しているのが、「語彙リスト」lexical
listsの<成立と展開>なのである。
前4千年紀後半、いわゆるウルク期中期から後期にかけて、メソポタミア最南部地方のウルクは都市化の速度をあげたようである。とりわけウルク後期にはいると、セトゥルメント中核に位置するエアンナ地区でつぎつぎに大規模な公共建造物が成立した。またウルク自体も他セトゥルメントを圧倒する規模を有していた。さいきんニッセンは、遺跡内で実施されたサーヴェイにもとづいて、これまで想定されていた100ヘクタールをはるかにこえるウルク後期の居住面積250ヘクタールを提示して、人口を20,000〜40,000人と見積もっている(Nissen
2002)。彼はかつてアダムズとともに、ウルク周辺地方のセトゥルメント調査を行なっていたが、いまや彼は、じっさいにはウルク後期には、サーヴェイ当時考えていたよりもはるかにおおくのセトゥルメントがウルク周辺に成立していたと推定し、セトゥルメント群は4レヴェルに階層化されていたとする。またすでに彼は、ウルクから多数出土する粗製土器BRBを、大公共建造物の建設労働者への食糧配給のための容器と解していて、当時、強大な政治権力のもとで大規模な人的動員が行なわれていた証拠とみなしていた。いまも彼は、この考えをかえていない。なおウルクは、ウルク中期頃から、イラン、シリア、トルコ南部と活発な交易活動を行ない、おどろくほど多量の鉱物などを輸入していた。シリアのいくつかの大セトゥルメントには、短期間ではあれ、ウルク人みずからが植民していた可能性がある(Algaze
2001; id. 2007)
このような状況のもと、ウルクにおいて、ウルク後期最末期(エアンナWa層時代)にいたって、粘土板による文字記録システムが成立するのである。記録システムは、つぎのエアンナV層時代(ジェムデト・ナスル時代)にウルクにおいてさらに精密化されるとともに、すくなくとも南部メソポタミアをこえてディヤラ流域地域にまで普及していく(Nissen
1986)。また文字記録とともに、円筒印章による押印システムも確立し、さらにU層時代までのウルクでは、円筒印章いがいにも、「ウルクの大杯」に代表されるような、支配者や公共組織を描いた工芸作品もおおく製作されている。まことにこれらは、ウルクにおいてこの時期までに国家形成が完了したことを示している。1
Wa、V層のエアンナから出土した粘土板は5000点をはるかに超えているが、うち約85パーセントは、行政記録administrative records、のこりは「語彙リスト」lexical
listsである。ウルクでは、大組織を日常的に管理・運営するために、粘土板記録が作られはじめたのである。大組織は、文書による記録がなければ維持できないほど、複雑化していたといってよい。よく誤解されるように、たんにモノを勘定するためだけに粘土板に数字や文字が書かれたのではない。文字記録システムは、いわば大組織の行政過程をまるごと情報化するために、Wa層時代にはいってごく短期間に作りだされた。2
南部メソポタミアでの国家形成の過程は、セトゥルメント内部での社会、経済の複雑化から説明するのがもっとも妥当であろう。さいきんティモシー・アールにしたがって関雄二が説得的に描いたように(関2006)、国家形成の最終局面では軍事、経済、イデオロギーという3<権力装置>の掌握が決定的に重要となる。それは、どの<権力装置>をどの程度掌握できるかによって、生まれてくる国家の形態がまるで異なったことを意味する。メソポタミアにおいては、国家形成ほぼまちがいなく、経済の<権力装置>獲得を核として進行した。3
だから、その最終段階で成立した文字記録システムも、メソポタミアでは、他の地域と異なって、行政・経済システムの円滑な運営を行なうことを第一にめざしていた。じっさい、メソポタミアで王の功業を記録する政治的テキストが書かれはじめるのは、前3千年紀前半までまたなければならない。また広い意味での宗教文書、文学作品も、おそらくその時期に、あるいは少し遅れて成立したようである。4
ドイツ隊のウルク発掘によって1920年代末から30年代のはじめにかけてエアンナ地区から出土した「古拙的な」archaische
粘土板テキスト群は、ファルケンシュタインによって1936年に公刊された(Falkenstein1936)。なおオックスフォード隊によってシュメールに北接するアッカド地方の小遺跡ジェムデト・ナスルで発見された「絵文字的な」pictographic粘土板群も、すでに出版されていた(Langdon
1928)。現在は、ウルク「古拙文書」は、ほとんどがエアンナWa、V層時代、一部がU層時代に書かれたと理解されており、また文書が出土したジェムデト・ナスルの公共建造物は、ウルク・エアンナV層期とほぼ同じ時代と推定されている。そして、ここで特筆すべきは、南部のウルクと北部ジェムデト・ナスルで出土する諸文書のあいだで、文字体に大きなちがいは存在しないという事実である。文字を構成するラインにはまだ曲線もめだつが、粘土板への直線首部の刻みこみは、しばしば、ほとんど「楔」状になっているようにみえる。これらのサインは、すぐのちになって真正の「楔形文字」cuneiformに発展していくから、たしかにこれらは「原楔形文字」protocuneiformと定義されてよい。なお、ときにウルクやジェムデト・ナスル文書だけでなく、前3千年紀中葉(初期王朝V期)に成立する文書群さえも、「古拙文書」とよばれることがあるが、すくなくともこの呼称は、ウルクWa、V、U層時代の諸文書に限定して用いられるべきであろう。また、たとえ文字体じたいは「古拙的」とよべるとしても、これらの粘土板にみえる書法は驚くほど精密であり、また文書からはきわめて複雑化した経済・社会システムが想定できる。
すでにファルケンシュタインは、ウルク文書群は行政記録だけでなりたっているのでないことを知っていたが、行政文書いがいのテキスト(しばしば当時は「学校文書」school
textsとよばれていた)に本格的な関心がよせられたのは、はるかのちになってからのことである。
1960年代中葉になって、シュメール中部のアブ・サラビク(古代名ケシュ?)から前3千年紀中葉の粘土板群が発見され、それらのほとんどが書記養成のための諸文書(「学校文書」)や文学テキストであることが理解された。しかもそれらは、すでにおなじ中部のファラ遺跡(シュルッパク市とされる)で出土していた文書としばしば同一内容であることも証明されたし、さらにそれらの一部は内容的にウルクWa、V層時代に書かれた「古拙的」粘土板にさかのぼることも気づかれはじめたのである。また第2次大戦後再開されたウルク発掘によって、ふたたび古拙文書が出土し、「語彙リスト」の数も飛躍的に増大した。そして決定的であったのは、1970年代中葉に、シリア南西部の大遺跡テル・マルディク(古代名エブラ)の王宮文書庫(前3千年紀中葉)が発掘されて、ファラやアブ・サラビク文書と同一内容の文書、さらにウルクWa、V層時代の「古拙文書」と同一内容の粘土板がおおく見出されたことである(Pettinato,
1981 [MEE 3]; Nissen 1981;Michalowski 1987)。そして1980年代には、ニッセン、グリーン、ダメロフ、エングルンドらがウルク「古拙文書」にかんする研究プロジェクトをたちあげた。彼らベルリン・グループは1987年以降、新「古拙文書」をつぎつぎに公刊するとともに、かれらの研究成果を公表しつづけている。エングルンドが1998年に公刊した論文は、彼らの仕事のみごとな総括である(Englund
1998)。
エアンナWa、V、U層時代のメソポタミア各地から出土した「古拙文書」はおそらく6000点ちかくに達しており、そしてそのうち少なくとも約670点は「語彙リスト」lexical
listsである。「語彙リスト」は、基本的には、あるひとつのカテゴリーに属する少なくとも数10個の語が、当時の60進法度量衡システムで基本ユニットを示す数字N1(とうぜん含意は「1」)とともに列挙される粘土板をさす。たとえば研究者が「都市」Citiesリストとよんでいる文書の冒頭4行は、つぎのように記録されている。1)N1
URI(5 E .AB), 2)N1 NIBRU(EN.LIL2), 3)N1 ARARMA2(a UD.AB), 4)N1 UNUGa。それぞれ都市ウル、ニップル、ラルサ、ウルクを示しているのである。ただのちに述べるように、ベルリン・グループの研究者たちが「貢納」Tributeと定義したリスト(フェルトホイスらはより中立的な呼称Word
List Cを用いる)は、この原則からはおおきく外れるし、また「容器」Vesselsリストでは、「容器」いがいに、「衣服」類も列挙される。なおV層時代にはリスト末尾に、リスト内の「行」総数をも示した、いわば「コロフォン」が書かれるのが原則だったようである。
「語彙リスト」lexical listsは、前2千年紀前半のメソポタミア各地、とりわけニップル都市から大量に出土しはじめる「語彙テキスト」lexical
texts とは区別される。後者では、おおくのシュメール語彙(および、ときにその読みにかんする指示)にアッカド語訳が付されることが原則であったようである。シュメール語彙のみが記録されているケースでも、実在するアッカド語訳が文書にあらわれていないだけだと考えられる。だから、そのような、シュメール語彙だけを記した文書には、Proto-を付した呼称が与えられているが(たとえばProto-Lu)、これはかならずしも正確ではない。いっぽう「語彙リスト」には、あたりまえのことながら、アッカド語訳は存在しない。さらに「語彙リスト」と「語彙テキスト」とは、内容的にはまったく連続していない。けれども、ともに、ある原理にしたがって多数のシュメール語彙を並べていくのであるし、そのような<語彙集>が成立した理由も、ほとんど共通している。それらは書記生の養成、訓練のために必要であった。だから模範あるいはモデルとして書記教育の教材として利用されたリスト、テキストのほかに、書記生が教材内のいくつかの「行」を練習した小粘土板もおおく出土している。
エングルンドによれば、エアンナWa、V層の時代、すなわちウルク期最末期およびジェムデト・ナスル時代のウルクではつぎのような「語彙リスト」が成立したという(Englund
1998: 88-89。括弧内はEnglund-Nissen 1993: 12で採用されていた表現)。「職業」Lu2 A:name
da(L A)、「容器」Vessels(Gef e(Vessels))、「貢納」Tribute(Tribut(Tribute))、「金属」Metal(Metall(Metal))、「木」Wood(B
ume(Tree, Wood))、「牛」Cattle(Rinder(Cattle, Animals))「官職」Officials(Beamte(Officials))、「魚」Fish(Fische(Fish))、「都市」Cities(St
dte(Cities))、「地理」G e o g r . ( G e o g r a p h i e(G e o g r . ))、「穀物」G
r a i n(Nahrung(Food, Grain))、「鳥」Birds(V gel(Birds))、「植物」P l a n
t s ( P f l a n z e n( P l a n t ))、「豚」P i g s(Schweine(Swine, Dog))、「語彙集」Vocabulary(Vokabular(Vocabulary))。なおフェルトホイスは、「語彙集」と「豚」をリストから除外している(Veldhuis
2006:186)。
現在のところ、ウルク・エアンナWa 層時代にさかのぼることができるのは、「職業」(ED Lu A)、「容器」、「金属」、「都市」リストである。そしてそれらの数もけっしておおくない。その他の「語彙リスト」はつづくV層時代から出土しはじめる。粘土板表面に「職業」リストED
Lu A(の一部?)が、裏面に「金属」が書
かれるという稀有の例もある(W 11986 a [Englund-Nissen 1993: Tafel 4 ] ; Veldhuis,
DCCLT:2)。
リストのなかでは、「職業」リストED(=Early Dynastic)Lu Aがもっともおおく出土する。このリストに与えられた呼称は、古バビロニア時代に成立したリスト(ふつうOB(=Old
Babylonian)Proto-Luとよばれる)や、前1千年紀にいたって完成するリスト(Lu= )にちなむ。前者には職業、身分など、社会的存在としての人間の諸状態を示す諸語が900ちかく集められている。そしてリストは、「人」をあらわすシュメール語lu2ではじまっているのである。後者すなわちLu=
では、最初の7行にlu2と、それに対応するアッカド諸語2-a, -u2, ma-am-ma, r-ru, be-lum, a-hu,
ami-lu が列挙されている。現存の古バビロニア期Lu(OB Proto-Lu)のほとんどには、シュメール語だけがみえるけれども、「原」テキストではそれぞれのシュメール語にアッカド語が対応していたことは明白である。OB
Proto-Luでは、単一シュメール語彙が連続して複数行に書かれることがある。これは、本来、それらに異なったアッカド語訳が与えられていたからにほかならない。またこの時代に成立した文学作品(Edubba
D:Civil 1985)のなかで、ある書記学校生徒が、「わたしはdInanna-te 2 <人名リスト>からはじまって、「平原の生物」(をへて)、Lu=
の終わりまでのすべての行を書いてきました」と答えている。5彼は、職業リストOB Luをシュメール・アッカド語彙リストであると明言しているのである。
ED Lu AにはエアンナWa 層時代に書かれた断片がいくつかのこっており(Fig.1)、またつづくV層時代のウルクからも、160点ちかくのテキストが発見されている(Fig.2)。
Fig.1: ED Lu A リストW 9656,h(Wa; Englund-Nissen 1993:Tafel 23) |
Fig.2: ED Lu A リストW 20266,1 表面部
(V; Englund-Nissen
1993:Tafel 2) |
Fig.3: ED Lu A リスト復元(Englund-Nissen 1993:17, Abb. 4) |
発見されたテキスト総数は、現存の諸リストのなかできわだっておおい。さらに重要なことは、その後古バビロニア時代まで、このリストは、南メソポタミアのみでなく、北メソポタミア、シリア、イラン各地で、当初の語彙の順序をけっして変えることなく、書き続けられていたという事実である。だから、いまや原テキストのほとんどすべての行を正確に復元することができる(Fig.3)。
キシュ近郊ジェムデト・ナスル(エアンナV層時代)文書群からはED Lu Aはみつかっていないが、同時代の南部メソポタミア遺跡から出土したとされ、1990年代中葉に古物市場に出まわった400枚以上にのぼる文書群には、まちがいなくこのリストが存在している(MS2429/1-4)。6
さらにウル(初期王朝期U期[e.g., UET 214])、ファラ(e.g., SF 33)、アブ・サラビク(e.g., OIP99
1)、ラガシュ(DP 337)、ニップル(ECTJ 220)(以上ともに初期王朝V期)、ニップル(OSP 1 11)、アダブ(Ad
746 [Istanbul])、ラガシュ(Schileico, ZA29 79: 6面体プリズム)(以上ともにアッカド期)など、シュメール地域から出土するだけでなく、シリア南西部のエブラ(メソポタミア編年の初期王朝期V期[e.g.,MEE
3 1])、イランのスサ(アッカド期[MDP 14 88])、北メソポタミアのナガル(テル・ブラク)(おそらくエブラ文書の時代と同時期[Michalowski
2003])でも発見されている。エブラにかんして注目されるのは、真正のED Lu Aリストがみつかっているだけでなく、Lu Aから文字サインが抜き出され、さらにそれらにセム語的な特徴をもつ「読み」がふられているテキストも存在するという事実である(Archi
1987; Civil-Rubio 1999:265; Michalowski 2003: 2)。そして古バビロニア時代のキスルラ(FAOS
2/1 pl. 92)、ウル(e.g., UET 7 86)、ニップルで、知られるかぎりでもっとも新しいLu Aリストが発見されている。ニップルではシュメール語人名リストとLu
Aの一部が同一粘土板に書かれているほか(SLT 113)、ED Lu Aや「貢納」リスト(ペティナートやフェルトホイスのいうSumerian
Word List C)が、粘土製プリズム(6面体)として製作されていた(YOS 1 1; Veldhuis - Hilprecht
2003-2004: 45-46; Veldhuis2004: 91-92, 377 Pl. 35)。
残念なことに、われわれはまだ、ED Lu Aで列挙されている「職業」名すべての意味を理解しているわけではない。ただ、職業名のおおくには「大」を意味するGALサインが付されているから、リストが重要な官職を列挙していることだけは、まちがいない。さてこの職業リスト冒頭にあらわれるITA.GI
.NAM2は、のちの「語彙テキスト」で「王」rruとアッカド語訳されることがあるから(MSL 12 93 [Canonical
lu= ]: 26;MSL 14 248 [Ea U]: 36-37)、ED Lu Aの集成、公刊に力をつくしてきたニッセンは、これこそが当時のウルク王をあらわす語であることを、当初から一貫して主張している(Nissen
1988: 94-95; Nissen-Damerow-Englund 1996: 111)。7 もしこの考えが認められるのであれば、この官職表は当時の大組織のなかの重要官職がほぼすべてランク付けされて、記録されているということになる。わたしは、このような説明には懐疑的である。なによりも、リスト冒頭の官職は、同時代の行政文書には、ほとんどあらわれない。いっぽうで、当時のウルク行政文書にも言及され、後のウルクやシリア・エブラなどの都市において支配者の意味で用いられつづけた語enは、このリストには言及されていないのである。
ED Lu Aにみえる官職群が現実の世界をどこまで示しているかという問題は、ウルク「語彙リスト」全般と行政文書とがどのように関係しているかというふうに、一般化することができる。それを典型的に示しているのは、「容器」リスト(Englund-Nissen
1993: 29,Abb. 12; Englund 1998: 97, Fg. 29)である。このリストの冒頭には、当時のウルク・エアンナ地区で無数に発見され、労働者への食料配給に用いられたと解釈される粗製土器BRB(ニッセン)を形象したサインが、そしてつづいて、DUGサイン(のちにはdugと読まれ、「土器」、「容器」全般を示した)があらわれる。そして第5、7サインは、それぞれ、のちのAKIR、LAHTANサインにつながっていくようにみえる。これらは、乳製品作りに用いられる容器を示す。いっぽうでこのリストでは、さらにDUGとさまざまなサインとが組みあわされて、「容器」のさまざまな用途が、あるいはさまざまなタイプの「容器」が指示されているのであるが、じつは、これらのほとんどは、現実の行政文書には発見できない(Krispijn
1992)。つまり「容器」リストには、現実に用いられる「容器」と、いわば「仮想」された「容器」とが、混在して書かれているのである。
「都市」リスト(Englund - Nissen 1993: 34: Abb. 16;Englund 1998: 91, Fg.
26)では、最初の4行で、ウル、ニップル、アダブ(Ararma)、ウルクが言及さている。いうまでもなく、これらの都市は実在している。では当時、リスト冒頭のウルがもっとも権威ある都市として認識されていたのだろうか。たしかにウルは、ウバイド時代からつづくセトゥルメントではあるけれども、リスト成立当時は、規模ではウルクにはるかにおよばない。さて、ウルク・エアンナV層時代、アッカド地方キシュちかくのジェムデト・ナスル(古代名はおそらくNI.RU)から出土した10をこえる粘土板には、上述の4都市をふくむ計17(?)のセトゥルメント名が表象されている印章(「集合都市印章」collective
cityseal)が押されており、さらに、おそらくテル・ウカイル(古代名ウルム?、ジェムデト・ナスルよりさらに北方に位置)から出土した1テキストにも、同一の印影があらわれる(Englund
1998: 92-93;Steinkeller 2002)。シュタインケラーは、「集合都市印章」は、ウルクのイナンナ神殿の祭儀費用の負担にかかわって用いられたと考えている。「集合都市印章」や「都市リスト」は、ひとびとがすでに南部メソポタミア(のちのシュメール・アッカド地域)を文化的・政治的に同質な世界と認識していたことを示す、きわめて重要な証拠であるが、ウルが当時もっとも権威ある存在とみなされていたとは、けっして結論できない。なお、「都市」リストが言及している地名が、さらに南部メソポタミアをこえてどの程度の広がりをもっていたかは、まだ、さほどあきらかではない。8
「容器」リストに典型的にみられるように、現実を「仮想」したサインがおおく含まれているという事実は、リストはもともと行政組織で働く書記たちを養成・訓練するために成立したという通説の否定材料ではない。「仮想」サインは、文字記録システムが生まれてまもない段階で、さまざまな要請に対応すべく、サインがつぎつぎに増殖されていった過程を示しているのではなかろうか。フェルトホイスがいうように(Veldhuis2006:
189)、当時、書記たちは現実を「完全に」把握したい、すべてのアイテムを文字サインとして掌握しておきたいという欲求のもと、新サインをつぎつぎに作りだしていたのかもしれない。そして現実の行政過程の記録の場では、これらのサインのおおくは、結局は不必要とみなされて、定着しなかったかのかもしれない。
エングルンドたちによって「貢納」と名づけられたリスト(Englund-Nissen 1993: 26, Abb. 9; Englund1998:
100-101, Fig. 30 [フェルトホイスは(Sumerian)Word List9Cの呼称を採用している])は、奇妙な構造をもっている。かなりの語彙は、通常のリストにみえる「1」サインいがいに、5、10、60を示すサインを伴う。またリスト前半部3行以下が、そのままリスト後半で繰りかえされている。さらに、いくつかの「人名」もリストに含まれているかもしれない。もともとは、諸数字とさまざまな実体(動物、金属、容器など)が組み合わされていることから「貢納」が想定されたのであるが、このリストには他の解釈がある。現在エングルンドらが提示しているリストは、後代のテキストによって補強・復元されている。とりわけ冒頭2ラインは、後代になって付け加えられたと想定されるが、これらは、「日」ないし「とき」をあらわすUDサインではじまっているのである。だからエングルンドは、このリストは知られうる最初の文学テキストなのかもしれないとさえ考えた(Englund
1998: 99-100)。後代のいくつかの文学テキスト冒頭は、udではじまるからである(「...のときに」)。またウェステンホルツにいたっては、このリストは神によって与えられ、書記が専有した知識secret
loreの集成なのだという(Westenholz 1998)。
そのように難しく考えることはないであろう。後代にこのテキストがどのように理解されていたかということと、ウルクWa、V層時代にこれがどのような目的で用いられていたかは、別の問題である。これは、フェルトホイスのいうように、行政記録作成のための範例文集と理解するのが正しいのではないか(Veldhuis
2006)。なによりも行政文書には、数字につづいて諸タームをあやまりなく書くことが要請されたはずである。フェルトホイスは、1、10、60という数字ユニットがあげられていることの重要性を正しく指摘している。この3数字ユニットを用いれば、現実の行政過程での数的な把握、表現はほぼ完璧に実現できる(e.g.,
60×2+10×3+1×5UDU「155頭の羊」)。文学や「秘知識」が書かれているというのであれば、なぜ神や星などがテキストにけっして表現されないのか。また魚や豚・野猪・鳥をのぞいた野生動物もあらわれないようである。それは「貢納」いがいの「語彙リスト」でもおなじことである。いわば「語彙リスト」は、書記が掌握しなければならない行政世界を「できるだけ完全に」描くことを目的としている。
ウルク期最末期に、行政組織の急速な複雑化に対処するために文字記録システムが生まれ、つづくジェムデト・ナスル時代にそれが大発展した。そして文書を作成する書記には、さまざまな教材が必要であったことは当然である。「語彙リスト」は教材であった。
ジェムデト・ナスル期は、文字記録システムが各地に爆発的に広まっていった時期であるようにみえる。「集合都市印章」の存在がつよく示唆するように、また「古拙的な」不動産売買を公的に周知させるための記録がおおくのこっていることからも想定されるように、当時、シュメール・アッカド地方のおおくの都市でこのシステムが採用されていたであろう。わたしは、さらに北メソポタミアでも(たとえばナガル[テル・ブラク])、この時期に<シュメール文字>記録システムが採用されたという証拠が見いだされたとしても、けっしておどろかない。10
ロゴグラムとしてのシュメール文字が、行政記録システムにいかに適合的であったか。少ない文字数のシュメール語彙を、文法要素をほとんど加えることなく粘土板に書きこめばよかったからである。またたとえシュメール語彙が、セム語として発音されたとしても、問題はないではないか。
行政記録システムが採用されたセトゥルメントでは、かならず書記の養成が必要とされる。書記養成のための「語彙リスト」も、かならずウルクから輸入されていたはずである。だから、各地の行政文書にみえる文字サインは、おどろくほどよく似ている。すでにわたしは、「<シュメール文字>文明の成立と展開」を象徴するのは「語彙リスト」だと述べた。それはこのような意味においてである。
前3千年紀にはいると、リストにみえるおおくの語彙は、書記たちには理解不可能になっていたであろう。にもかかわらず、すくなくともアッカド王朝時代までは、北メソポタミア、イランやシリア南西部にいたるまでの各都市でそれらは書記たちによって、書きつづけられた。「職業」リストED
Lu Aがいかに広く普及していたかは、すでにふれた。行政文書の作成という点を考えれば、諸リストのなかでLu Aがもっともおおくのこっているのは当然なことであるが、他リストも、やはり各地で書きつづけられていた。たとえばエブラでは、前3千年紀のシュメールで存在したほぼすべての「語彙リスト」を発見できる(Michalowski
1987:170; Englund 1998: 88-89)。そればかりでなく、エブラではED Lu Aにエブラ語ふうの読みを与える努力も行なわれていたし、それとは独立してシュメール語にエブラ語訳を与える長大なテキスト、すなわち、真の意味での「語彙テキスト」lexical
textsさえも、南部メソポタミアにさきがけて成立していたのである(Ebla Vocabulary:Pettinato 1982
[MEE 4])11
ただ、ウルク期末期やジェムデト・ナスル期に生まれた語彙リストが、500年もの経過をへて、しだいに現実とはそぐわなくなったことは、やはり否めない事実なのであろう。古バビロニア時代のニップルで書記たちが学んださいに依拠したのは、あらたに成立した「職業リスト」(OB
Proto-Lu)などであって、ED Lu Aではなかったようである。いっぽうで後者は、まちがいなく、はるか古代の知恵を示すものとして尊重されていた。だからこそ、ED
Lu Aは、「貢納」リストとともに6面体プリズムとして保存されていたのである。はじめてリストは、古代の「秘密の知識」secret
loreを伝えているとみなされたのである。
古バビロニア時代にさかんに用いられた職業リスト(OB Proto-)Luは、初期王朝期後半にはまだ成立していなかったであろう。かわって、当時、ED
Lu B、C、D、E、Xとよばれる職業リストが存在している。これらはED Lu Aとは系統がちがう。これらはいずれも、シュメール地方では中部のファラないしアブ・サラビク文書群のなかに含まれており、それより早期のテキストは、発見されていない。これらのおおくは、1969年にはじめて本格的に論じられたのであるが(MSL
12: 13-21)、ファラ文書は不正確な転写でしか公刊されていなかったし、またエブラ文書はまだ知られていなかったから、議論は不十分なままにおわっていた。
当初はED Lu B、C、D はファラ文書にしか含まれていないと考えられていたが、いまでは、すくなくともED Lu Cは、おそらくウル第3王朝時代のニップルでプリズムとして作られていたことがわかっている(Taylor,
DCCLT)。この事実は、すでにウル第3王朝時代には、ED Lu Cはあまり書記の実訓練には用いられなくなっていたことを示唆しているのかもしれない。なおファラ出土ED
Lu Cは、表面部と裏面部が反対に理解されて公刊され、結果として行番号もまったくまちがって与えられていたという。ED Lu CにかぎらずED Lu Dも、個別サインの転写はきわめて不正確であったらしい。12
それに比べて、ED Lu Eはいまや正確に理解されている。これは全約220行という長大なリストであって、これまでアブ・サラビク(OIP
99 nos. 54-60)、エブラ(MEE 3 nos. 6-11)、ガスル(HSS 10 222)およびキシュ(MAD 5
35)で発見されている。それらは南部メソポタミア編年でいう初期王朝期V期後半およびアッカド時代に書かれていた。ガスル(のちのヌジ)はキルククちかくのセトゥルメントであるから、このリストは3千年紀の後半になって成立し、主としてシュメール中・北部からアッカド地方、さらにメソポタミア北部やシリア地方でよく用いられたと推測できるであろう。ペティナートはエブラ出土MEE
3 no. 6最初の2コラムの職名を、つぎのように読んでいる。
dub-sar(obv. i 1), sanga(i 2), sagi(i
3), šabra(i 4), ensi2(i 5),nu-banda3(i 6), šagina(i 7), kušx(i 8) gal-sukkal(ii 1),gal-unken(ii 2), eme-bala(ii 3), sa12-du5(ii
4), muhaldim(ii 5), šandan(ii 6), gal5-la2(ii 7), gal-kinda(ii 8), galnimgir(ii
9), nagar(ii 10)13ウルクで生まれたED Lu Aにみえる官職のかなりは、いまや語義がわからなくなっている。これにたいして、ED
Lu Eの職名は、ほとんどが了解可能である。ED Lu Eは、当時の大公共組織のなかのさまざまな「身分」、「職業」を表現するという、きわめて現実的な目的のもとで、おそらく初期王朝期の後半、あるいは後半ちかくになって、シュメール南部ウルク以外の都市で、たぶんシュメール中・北部ないしはアッカド地方で成立したのであろう。第4行にみえるabra(PA.AL)は、アッカド時代になるまではシュメール南部(たとえばラガシュ)では用いられることのない職名なのである。そして、最近になって、この職業リストからの抜書きテキストが、アッカド時代、おそらくナラム・シン王時代のウル・ケシュ(遺跡名テル・モザン)から出土した(Buccellati
2003)。ウル・ケシュはメソポタミア北部の大都市ナガル(テル・ブラク)からさらに約60キロも北方に位置し、まちがいなくフルリ文化世界に属していた。そこでもED
Lu E が学ばれていたのである。
いまやわれわれは、初期王朝期後半までは、ウルク起源の「語彙リスト」がシュメール・アッカド地方だけでなく西アジア各地でさかんに学ばれていたけれども、その頃から別系統の諸「語彙リスト」、すなわち行政組織の実態をより正確に反映した諸リストが各地で利用されはじめたと考えたらよいのであろう。そしてそれらが刺激剤となって、古バビロニア時代の「語彙テキスト」が生まれたと理解すればよいのであろう。
- エアンナIVa、III層時代のウルクでは、「神殿」組織を核とする政治組織が成立したのであり、のち「神殿」にかわって、はじめて世俗的な王権があらわれるという解釈がある。これにしたがえば、シュメールの国家形成が完了するのは、前3千年紀にはいってのちのことになる。わたしは、このような立場を採らない。これについては、前川 1995を参照。
- シュマント・ベッセラの「トークン・セオリー」(Schmandt-Besserat 1992)には、この視点が決定的に欠落している。
- わたしは<権力装置>としての経済の掌握を重視する。それも奢侈品を獲得するための経済活動ではなく、ステイプル生産の側面を重視する。南部メソポタミアの国家形成のモメントとして遠距離交易を重視する考えがある。アルガゼもそのような立場にいるが、彼にあっては、どのような特質をもつウルク「国家」がいつ成立するのかが、いつまでも明らかではない。また彼は、かつてのように(Algaze
1993)、「ウルク世界システム」の語を用いなくなった現在も、ウルクの対外交易を「帝国主義(的)」とよび(Algaze
2001)、南部メソポタミア地方が都市化にむけて「離陸」するモメントが遠距離交易であったと理解する(Algaze2007)。またさいきん衛星写真を分析することによって、プルネルは前4千年紀から3千年紀にかけてのメソポタミア南部では沼沢が大変に大きな面積を占めていたことを強調して、南部メソポタミアでは、もともと「都市」は沼沢のなかの「小島」のような存在から発展した結果なのだという(Pournelle
2007)。このような考えに立てば、やはりメソポタミアの国家形成の要因は交易に求められるであろう。
けれども、それは、ウバイドIII期にはいって、なぜ急激に南部メソポタミアの文化要素がメソポタミア全域・シリアに広がっていくのか、つづいてウルク中期にもなぜ同じような拡大現象が存在するのか、ウルクはなぜ大規模な遠距離交易をはじめることができたのか、なにも説明をしていない。やはりその背景として、独特のタイプの灌漑農業の大発展と大規模な羊毛生産が想定されるべきではないか。沼沢地の魚類は遠距離交易の資本とはならない。[ただし、ウバイドIII期以降、灌漑農業と羊毛生産が大発展したというわたしの考えについての考古学的な証明は、まだできていない。]さいきんウィンターは、支配者がイナンナ神と向きあって立つシーンを描いた「ウルクの大杯」では、さらに下段に、灌漑水路、大麦と亜麻(すなわち耕地)、羊、収穫物と酪農製品のイナンナ神殿への貢納、搬入が示されているとして、「ウルクの大杯」は<農業国家>誕生の象徴だと強調した(Winter
2007)。わたしも彼女と同じ立場に立つ。
- 王碑文や宗教、文学テキストよりもはるかに早く、不動産売買の成立を告知するための記録が、すでにIII層時代に成立していることにも注意すべきである。しかもこれらは、おそらく、シュメールに北接するアッカド地方でもおおく書かれていた(Gelb-
Steinkeller-Whiting 1991: 3f.)。
- Edubba D 13-14: mu didli [d]inanna-te2-ta en-na nig2-zi-gal2 edin-na zag lu2-u-ka-e3 i3-sar
- インターネットで、これらの原粘土板写真と翻字とを参照することができる。MS 2429/1: http//cdli.ucla.edu/P006042.これらはウンマないし周辺遺跡で盗掘されたとの未確認情報がある。
- 「都市」リストには西方セム遊牧民の地域や東方スサが言及されていると解釈されることがある。Englund-Nissen 1993, 147:
Cities 30 (Susa), Cities 35 (Tidnim).
- Sumerian Word List Cとは、エブラ出土の「貢納」リストにたいしてぺティナートが与えた呼称である(Liste di parole
sumeriche A, B, C, D, E [Pettinato 1981: 135ff.])。Word List Dは、エングルンドらのいう「穀物」リストのことである。
- テル・ブラク(ナガル)で出土した2「絵文字」記録が、文字化を目ざす地方的なこころみの証拠と解釈されたことがある (Finkel 1987)。年代が確定できないことから、エングルンドはこれには批判的である
(Englund 1998: 4284)。 たとえナガルにおいて文字記録化が進みはじめていたとしても、<シュメール>文字記録システムが到達すれば、それはたちまち瓦解したのではなかろうか。さいきんナガルではおそらく前3千年紀中葉をわずかに過ぎた時期のED
Lu Aが出土したが (Michalowski 2003)、より早期、もっともはやくてジェムデト・ナスル期のED Lu Aが出現してもよいとおもう。
- 「エブラ語彙集」のなかのしゅメール語のみを集成したリスト群もエブラで発見されている (Picchioni 1997)。
- かつてエブラ文書が知られていなかったときには、第1行は[ens]i2 と復原され、これは都市支配者を示すと了解されていたのであろう (MSL
12 17)。じつはensi2は5行目にあらわれる。2行目はsangaでなくumbisagと理解されるべきである。
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