結論から先に言うと、地図上に「Rujm何々」または「Rijum何々」と記載されたものは、すべて近年の道標または三角点としての石積み・土盛りであった。(よって、地図上のRujm/Rijumは、「ケルン墓」というよりもむしろ「道標」の意味で用いられている可能性が高い。)前回の予備調査で予想されていたことではあるが、青銅器時代遊牧民のケルン墓と目される事例は、このエリアには皆無であった。無論、見落としが無いとは断言できないが、少なくともケルン墓がこのエリアに希薄であることだけは確かであろう。 ところで、「ケルンCairn」には実際には様々な機能がある。このうち、埋葬目的のものだけを「ケルン墓」と定義している。本計画研究班の調査対象が、これである。それ以外のケルンとしては、例えば、道標ケルンや記念碑ケルン、あるいは祈願ケルンなどがある。これらは比較的新しいものが多く、我々の調査対象ではない。では分布調査の段階でどうやって両者を識別するのかというと、決め手は内部構造の有無にある。ケルン墓は、通常、埋葬を想定した空間(シスト部分)を中央に組み込んでいる。ケルン墓が盗掘されている場合、幸か不幸か、その存在が露呈することがある。一方、道標ケルンなどは単なる石積みに過ぎないので、明確な内部構造を持たない。もう一つの違いが、付帯遺構の有無である。ケルン墓は埋葬施設であるから、墓本体以外にも様々な葬祭関連遺構を伴うことがある。一方、道標ケルンなどの場合、それは稀である。加えて、分布形態も異なる。密集型・分散型の違いはあるにしても、ケルン墓は単独では存在せず、ケルン墓群を形成することが多い。これは、一つの墓域が部族の聖地として長期間使用され続けるからである。道標・祈念碑・祈願ケルンの場合、そのようなことは稀である。よって、それらは単独または少数の群を形成しているに過ぎない。分布調査の段階でもケルン墓とそれ以外のケルンをある程度識別できるのは、以上の理由による。 さて、中間エリアにケルン墓群が希薄であることは再確認できた。しかし、このエリアに別のタイプの墓域が無いのかというと、必ずしもそうではない。ビシュリ台地の北縁部で、ジャズラ(Jezra)やアブ・ハマド(Abu Hamad)など、前期青銅器時代の竪坑墓群が確認されているからである(図3,4)。後述するように、これらの竪坑墓群はユーフラテス河畔に点在する定住農耕社会側の墓域と考えられる。
このエリアでは、平坦な北半部を飛ばして起伏のある最南端部分、すなわちビイル・ラフーム村の周辺から踏査を開始した。前回の予備調査で、この地域にケルン墓が集中することを確認していたからである。踏査の結果、以下に述べる4件のケルン墓群を確認・仮登録した(図1)。